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117/1096 忘れられない憎しみに苦しむ人へ・・・・

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で117日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

117日目は、ここにきてこれまでの116記事すべてを読んでくださっている方というのは、果たしてどのくらいおられるものだろう!と思った。
それで、3年書き切った暁には1096もの記事が溜まることを思うと、あとからではとても全部を読むのは大変すぎるから、ずっとほぼ毎日お付き合いくださっている方だけがすべてを読んでくださるものだろうと思った。
また新たな感謝が湧いて、胸熱くなった。

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今日は、心の激動のあった日だった。大事な人を、行動でも大事にするというのは、大変なこともあると思った。ずっと一緒にいたい大好きな人、ずっと頼っていたい人、心地の良い状態、楽な状態を見直すことがこのところ重なった。

でも自分は、間違っちゃいけないのだと思った。
たとえば、毎日投稿を始める前、毎日書かなくてよかったぶん、今よりずっと楽だった。楽をしていられることもできたのに、わたしはわざわざ始めた。これによって、大変なこともあるのに、良かったと思えることのほうが大きかった。
心になにか引っかかるときは、自分の良心やチャレンジ精神の向く方へ、進まなくてはならないこともあるのだと思う。自分の思いを拾ってあげるときに大事なのは、それに対して、大変そう、怖い、辛い、という不安が自分の中に生まれても、それは本当は自分ではない、と知っていることだと思う。

だからといって、怖くないことにする、辛くないことにする、ということではない。そんなふうに自分を誤魔化して嘘つかせたりしなくていいから、しかもその怖がってる自分はなにも悪人なのではなくて、何かが怖いだけのちょっと可愛いやつだから、なんなら優しくしてあげて、

「怖いよね怖いよね、もうそれ当然だし、怖いままでぜんぜんいいよ・・・!つか好きで怖がってんじゃないしね、うん、それでさ、あのさ、自分ちょっとやらなきゃいけないことあるから、君は怖がったままでいいから、ちょっと、ここにこのままいてくれる?俺やることやってきちゃうわ」

と言って、その自分をちゃんと持ったまま、そのやりたいことをやってしまう、ということだと思う。
そしてガクブルしたままやるのだ。寂しいまま進むのだ。

誰かを、何かを許せないというときも、そうだと思う。
無理に、許さなくていいのだと思う。何かを許せない自分は、消すべき悪者なんかじゃない・・・・傷ついている、弱った人だと思う。それを胸においたまま、進んでいいのだと思う。

ポイントは、電話を保留するときの、「ちょ、ちょっと待ってね、一旦このままで、チョット待ってて!」と言うときみたいな、
何かを話し合っていて「あのさ、OK、その考えは一案としてまず一旦置いておくとして、そんでさあ・・・」というときみたいな、
それも保持したまま、自分をしっかり持っている、ということ。

わたしは、裏自伝(https://note.mu/michiemiyu/m/m0b769be7bc06)でも書いた通り、過去に知人から許しがたい陵辱を受けたことがある。メタメタに傷ついて、ひどく弱ってしまい、しばらく廃人となって実家の自分の部屋から出られなくなった。

でも、わたしはしばらくかかったがその出来事から立ち直った。
それまでの間、憎しみというものをつぶさに観察していて、気がついたことがある。

なんと、人には、人を憎む機能など備わっていないのだ。最大で、罪を憎んで人を憎まず、これしかできないのだ。
その人物への憎しみを最大にまで強めようとしても、どうしてもできない自分がいることにうっすらと気がついてから、ガラガラと崩れるように気持ちが変化した。

その相手は、なぜそんな人物になったんだ!!と考えれば考えるほど、その人物が子供の頃からその時に至るまでに受けた歪みの原因は、いつも必ず外からやってきたもので、その人物のせいではないと思えてしまうのだ。
親のせいか、環境のせいか、いじめのせいか、なんだろうと思うと、どうしようもなかったと思えて、虚しかった。
そうなるたびに自分で、ダメだダメだ、もっと怒っていなくては、、と思った。もっと憎まなくては、と。

でも、その人が小さかった頃、その子供が、後に大人になってそんなにまで人を傷つけるようになったのは、なんでなの?とその子供に聞いてみる気持ちになったら、ただただもう、悲しかった。脱力するしかなかった。

その人は育つ過程で悲しく歪められてしまったのだと心の奥底では知っていたのに、そんなことは否定して憎まなくては、と努力していたのだ。
それを自分で認めてしまったら、張っていたものは一気に切れて灰になった。自分が恨めしく思っていたのは、起こってしまったその出来事だけだったんだと思った。

ただ、たくさん泣いた。憎む矛先がないなんて、自分を哀れに思った。
でも、泣いてただニートになって、飽きるほど一人でいて、泣ききって、それからわたしは元気になり始めた。

だから、大いにその罪を憎んでいいのだと思う。でも、それをしていてわかるのは、その罪自体に復讐はできないということ。復讐の対象のない憎しみは、いずれ無駄骨感に負けて折れる。

それまでの間、わたしは、ひどい目にあった・・・と思っている自分を、いつも自分の中に置いておいた。ちょっとした小刀みたいに。
どこまでも持ち歩こう、消さないぞ!と思っていた。昨日の執着の話ととても似ているけれど、憎んでもいけない、だなんて厳しすぎる。
置いておくくらい、いいじゃないか!!と許していた。
誰かがわたしの心の中を探って、心の銃刀法違反です!と言って逮捕するわけでなし、一旦これはこのままちゃんと置いておいて、あとは普通に暮らそうと思った。ロウソクの灯みたいに、消えないように守って、どこにでも連れて歩いた。

『あなたを一緒に憎み隊』でも結成して、可能な限りこの憎しみを強め、心の中で育てて、恨み、呪い、呪怨、とハイレベルなものに変えていきましょう!と言ってその自分に協力しようとすると、その活動に限度を感じる時が来る。どうしてもこれ以上は強められない、という限界がある。貞子のようにはなれない。そのリミットを見に行こうとすることが、わたしにとって大きな助けとなった。
今もその罪をひどいことだった、と思っているけれど、その人のことは憎んでいない。そこをスパッと切り離すことができて、自分を楽にしてあげられた。

もし、この過去を糧にでも、肥料にでも栄養にでもして使うとしたら、こうしてそれについて書くことしかわたしにはできないのだけれど、それでも誰かにどうしても許せないことをされた、と苦しむ人の、小さな光になれたらと願ってやまない。
人を憎もうとするのは、とてもとても、大変なことだから。たくさんのエネルギーが要る。わたしは、その力を、自分を癒す力にできることをマジで信じている。

許すって、悔しいことだと思っていた。負けることだ、折れることだ、敗北を喫することだと思っていた。
でも、今になって思うのは、まったく反対だということ。憎しみを許すことは、自分の前向きに生きようとする力の勝利なのだ。
その人を許して、わたしはあの出来事に負けたんじゃない。そのダメージに勝ったのだと思っている。

今日は、昨日の投稿にコメントをくださった方の痛切な思いに胸を痛めていたから、罪は遠慮なく憎もう、人は憎もうとしてみよう、ということについて、書いてみた。
もしかしたらどこかにいる、役立つ方のところに、届きますように。
 
それではまた、明日!!!
 
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