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世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)

 その御庭番は、斑鳩宮の庭を掃き清めていた。法隆寺や五重塔など斑鳩伽藍群が見える。
 「……随分とでかくなったもんだな」
 斑鳩宮は仏教建築に囲まれていた。まるでそこだけ天竺か、唐土のようだった。正確には中国の六朝時代のようだったが、斑鳩の鬼にそんな事は分からない。とにかくハイカラに見えた。
 向こうから、菩岐々美郎女がやって来た。差し入れの弁当を持っている。箸があった。
 「太子様は箸も仏教も日本中に広めるつもりよ」
 「……全く、この箸って奴は、やたらと手先が器用になっていけねぇ」
 御庭番は弁当を貰うと、箸を使って食べ始めた。昔のように手づかみで大食いはできない。
 「あなたも随分変わったわね。仏を信じ、箸を使うなんて……」
 菩岐々美郎女がしみじみとそう言った。そういう彼女も太刀は置いている。もう若くはない。
 「毒を喰らわば皿までよ。仏とやらが毒かどうか、今俺の身体で試している処だ」
 斑鳩の鬼はそう言って大笑した。それから二人で、法隆寺の鐘の音を聞いた。講堂で太子の講釈が始まる。ここはインドのナーランダ僧院か。大学みたいな雰囲気さえ漂っていた。
 聖徳太子没後、斑鳩伽藍群は一度、廃墟になる。だがまた再建されている。
 
 推古26年、西暦618年、隋が滅び、唐が興きた。隋の煬帝は暗殺された。秦の始皇帝以来の暴君で、評判の悪い皇帝だった。煬帝は、日本の敵になる可能性がある人物だった。日本の外交上の懸念が一つ消えた。聖徳太子も安堵した事だろう。この時期、蘇我馬子も死んだ。
 推古28年、西暦620年、聖徳太子と蘇我馬子による『天皇記』『国記』の編纂が終わった。
 内容は伝わっていない。『古事記』や『日本書紀』の元資料だと言われている。歴史文献として認められていないが、その一部の内容は、伝説の富士王朝に言及した古史古伝(こしこでん)にも流れたと言われている。日本史は通常、考えられているよりも、遥かに古い。
 蘇我氏が滅びる時、蘇我蝦夷は『天皇記』『国記』を処分し、屋敷に火を放った。だがこの時、『国記』は免れたという伝説がある。だから古史古伝に富士王朝の話が残っていると言われる。
 これとは別に、聖徳太子が残した未来の予言書があると言われている。所謂『未来記』だ。『平家物語』(注36)でその言及があり、楠木正成公が元弘2年、西暦1332年に、聖徳太子の『未来紀』を読んで、鎌倉幕府が倒れると解釈して、南朝の後醍醐天皇についた逸話がある。
 『日本書記』にも、聖徳太子に関する記述で、「兼知未然」(かねていまだ然らざるを知る)という文言がある。太子はいつも「まだ実現していない事を、予め知っていた」と言う。
 聖徳太子が、遠い過去と遠い未来に、一体何を見たのか、本当の処はよく分からない。痕跡は残っているが、もう内容が分からない。ただ推定するだけだ。だが政治家で、実務家として、文書を残しているので、ある程度の推定はできる。西洋にもちょっといないタイプの人物だ。
 もしかしたら、空海を抑えて、日本史で最も偉大な人物だったかもしれない。
 菩岐々美郎女が伝えた太子の言葉として、世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)という文言がある。世界は仮象で、仏だけが真実であるという意味だが、虚仮という文言には仮の世という意味もあるが、善悪が相克する様を見る教訓的な意味もあると考える。
 だから世間虚仮唯仏是真は「世界は劇場、ただ仏だけが真実」と読んでみたい。
 
 「……仏って何だ?日本の神々とどう違う?」
 御庭番は太子に問うた。飛鳥からの帰り道だった。太子はいつものように馬に乗っていた。今日は従者が少ない。暴れ者が斑鳩の鬼と呼ばれて久しい。髪に白いものが混じる。
 「日本の神々、それは民族神と言えるでしょう――」
 太子は答えた。どこの国でも神々は祀っている。その民族の守護神として、特色がある。
 「――でもこの民族神は、どうしても他の民族神とぶつかる。民族神は戦争を起こす」
 遠い未来、日本は世界を相手に、空と海を越えて大戦をすると太子は言った。俄かに信じられない話だった。だが日本の神々が、日本を味方し、仇なす存在と戦う事は理解できた。
 そして民族神を信じている限り、歴史から戦争はなくならず、宇宙の扉も開かれないと太子は言った。民族神は限界があり、その教えはその国土を超える事はない。民族神同士で戦う。
 「仏とは、神々より上位の存在。民族神を超える存在です。だから救いをもたらす」
 太子は言った。だがそれが、どう救いをもたらすのか分からなかった。
 「仏とは法です。宇宙の法則です。それが人格化した存在です。だから人類を公平に扱う。そして民族神より、仏の教えが信じられている限り、国と国の間で平和が保たれる」
 国を越えて同じ教えを信じているならば、確かに争う余地は減るかもしれない。
 「じゃあ、民族神なんか全部いなくなればいいじゃないか?」
 斑鳩の鬼がそう言うと、太子はそういう訳にはいかないと苦笑した。
 「それぞれの民族で利害を代表する存在は必要でしょう。仏が調停しますが……」
 「……だがこの国で仏を信じる奴は少ないぞ」
 御庭番は言った。実感として100人に1人くらいじゃないか?いや、もっと少ないかもしれない。あちこちに鳥居が立ち、神社が無数にある。みんな何となくそっちを信じている。
 「仏を信じるか、民族神を信じるか、あるいは悪魔の教えを取るかは、人類の選択です」
 太子がそう言うと、斑鳩の鬼はスケールの大きな話だと思って、議論を投げ出した。
 「……人類の選択とは大げさだが、人間の自由って奴だな」
 御庭番はそう答えると、左右に目を走らせた。周囲に殺気を感じる。今日はやけに数が多い。どうやら年貢の納め時らしい。草むらに隠れている奴らだけじゃない。遠く蹄の音もする。
 少しおかしかった。登庁の時間は、不規則にしている。どこかで情報が洩れている。
 「おい、調子麿。太子を連れて先に行きな」
 従者は無言で頷くと、少数の者を先行して走らせ、中列に太子を混ぜて、護送する。
 「……世話になったな。あばよ。浄土とやらがあるなら、そこで会おう。ああ、そうか。俺は地獄の特等席を予約済みか。閻魔大王とやらにご対面だな」
 斑鳩の鬼は今のうちに、今生の別れを済ませておいた方がいいと判断した。
 「こちらこそ世話になりました。あなたの仏法を護持する力、必ずや日本の未来を開きましょう。あなたのその力は、もはやあなたの力ではない。仏と一体です。存分にやりなさい」
 御庭番は横を向いて、臭そうに手を振っていた。そういうセリフは好きじゃない。
 「では斑鳩の鬼、あなたは閻魔大王の配下に入ってもらいましょう。一匹の赤鬼です」
 太子がそう言って片目を瞑ると、御庭番は大笑した。確かにそっちの方がお似合いだ。
 「あばよ。太子。また来世でな」
 太子は合掌して立ち去った。歴史の彼方へ。もう二度と会う事はないだろう。
 
 斑鳩の鬼は、子飼いの配下を集めると、荷車を持って来させた。武器が満載されている。それぞれ武器を取り出すが、見慣れない兵器群があった。例えば、ボウガンや、クロスボウがあった。飛び道具だ。配下の者たちは、草むらから襲い掛かって来る賊を射殺した。
 賊たちも弓矢で応戦するが、発射速度が違う。少数だったが、弾数で圧倒した。
 馬に乗った武人たちがやってきた。配下の騎兵も連れている。ここを通す訳には行かない。
 「……斑鳩の鬼!今日こそ決着を付けてやる!」
 見ると、その武人は物部の残党だった。丁未の乱でこいつの親と轡を並べた記憶がある。
 「青二才がほざくな!喰らえ!」
 御庭番は大型の兵器を地面に下ろしていた。聖徳太子兵器群の中でも、一番の大物だった。口径は小さいが、何かの発射装置だと言う事は分かる。助手が紐で縛った弓矢の帯を持っている。斑鳩の鬼はハンドルをぐるぐる回した。小型の矢が連続発射された。
 たちまち馬ごと蜂の巣になって斃れる武人が続出した。
 「おのれ!異国の妖術か!」
 「知るか!馬鹿!」
 御庭番はハンドルをぐるぐる回した。配下が砲を回し、別の配下が矢を装填する。
 この兵器群は、聖徳太子が未来から設計図をダウンロードした。そしてリバースエンジニアリングして、飛鳥時代に再現した。金属部品の点数が少なく、強度的に問題があったが、使えない訳ではない。ハンドルをぐるぐる回すと、弓矢は連続して飛び出す。一種のマシンガンだ。
 だが排仏派の連中は怯まなかった。数を頼りに押し寄せて来る。
 「やらせはせん!やらせはせんぞー!」
 御庭番は「ダダダダダダッ!」と弓矢を撃ち続けた。こちらも弓矢を被弾する。満身創痍だ。
 「俺の太子!俺の夢!俺の仏だ!」
 ここから先は一歩も通さない。全員ここで討ち死にだ。死ね!
 
 気が付いたら、全弾撃ち尽くし、配下の者は皆死んでいた。だが敵はまだまだいる。
 「今日の俺は一匹の暴れ者だ!」
 いつもの鉄塊を持ち出した。巨大な鉄の柱を構える。剣だ。あまりに太くて重い。
 「最期まで付き合え!」
 物部の残党に鉄塊を喰らわせた。中臣の排仏派を蹴散らす。
 斑鳩の鬼は吠えた。腹の底から震えるような声だった。もはや人の声じゃない。
 「ええい!怯むな!相手は一人だ!押し込め!」
 中臣の武人が兵を指揮した。盾を持った兵たちが押し寄せる。
 だが鉄塊を喰らった兵は盾ごとへしゃげて、どこかに飛んで行った。
 ――ここが俺の死場だ。やっと見つけた。どうやってこの命を使ってくれよう?
 「午後まで持ちこたえよ。こやつの力は午前中までだ」
 訳知り顔の物部の武人がそう言った。兵たちがざわめく。希望が湧いた。
 斑鳩の鬼はニヤリと笑った。そして天を指す。太陽は天頂を超えていた。
 「アッハッハッハ!そういう訳だ!かかったな」
 午後でも三倍の力が出せた。午前中は鬼の顔、そして午後は仏ならず、鬼の顔と言う訳だ。
 「たばかったな!」
 訳知り顔の物部の武人はうろたえた。基本的な欺瞞情報に惑わされていた。
 「……構わん。押し切れ!」
 だが中臣の武人は、数に任せて、斑鳩の鬼に向かって行った。やけに強気だ。
 ふと、敵の中に、蘇我氏の配下の姿を見た。その者は慌てて姿を隠す。
 ――ああ、そうか。そういう事か。蘇我の奴らめ。蝦夷(えみし)か?裏切り者め!
 やっぱり丁未の乱で、蘇我馬子を討ち取っておけば良かったと思った。
 斑鳩の鬼は、金棒をしごくと、敵陣に向かって、最期の突撃を敢行した。
 
 推古30年、西暦622年、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈っていた膳大郎女が2月21日に薨去(こうきょ)し、厩戸皇子も翌22日、薨御(こうぎょ)した。享年49と言われる。
 推古36年、西暦628年、推古天皇は75歳で崩御(ほうぎょ)した。皇極2年、西暦643年、山背大兄王が自死。太子の一族が滅亡。時の波は流れて、今の世は、太子没後1400年となる。

注36 『平家物語』巻八「山門御幸」 13世紀頃 鎌倉時代
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード66

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