【1話完結】「持てる者と持たざる者」



 職場のある金融街から電車を乗り継いで三駅、閑静な住宅街と形容するに相応しいこの町の夜に一人、男は帰路につこうとしていた。片山亨(とおる)は大手証券会社に勤務していた。身に余るほどの報酬を得、大学時代に口説いた妻と教科書通りの思春期に突入した中二の娘と三人で暮らしている。特段大きな挫折も、人生のピンチも訪れず−父親と同じ洗濯機で衣服を洗わないで欲しいと云われた時以外は−、ここまでやってきたのだ、と彼はそう考えていた。革靴のカツカツと鳴る音が、二一時のアスファルトに刻まれていった。

 改札北口を降りて大通りをまっすぐ進んだのち、二つ目の信号を左折すると、この辺りの児童が通う附属小が見えてくる。この地域一体が学区ということもあり、交通事故防止の観点から横断歩道ではなく、極力地下道を整備するという市の取り組みは、逆に非行少年たちがたむろする場を与えることになってしまった。

 老舗の和菓子屋が左手に見えて来れば、その脇に彼が通勤路として利用する地下道が現れる。そのまま潜らずに家に帰ることももちろん可能ではあるが、その場合踏切にぶつかってしまう。なかなか切り替わらないことで有名な踏切である。文字通り足踏みを食らってしまうのである。せっかちな彼にとってそのルートはほとんどないに等しかった。

 階段を降りて地下道へと入っていく。外とは異なる不気味な冷気が漂っている。壁には”彼ら”がスプレーで描いたと思しき芸術群と、それを上書きで消そうする”大人”の攻防を見てとることができた。地下道に迷い込んだ雀が構って欲しそうに、あちらこちらと飛び廻っている。見慣れた道。靴音は地下特有の反響をしている。

 コの字型の地下道の二つ目の角を曲がってすぐに、彼は見慣れない光景に出会(でくわ)した。女が一人、床にしゃがみ込んで壁にもたれかかっているのである。暗い黒色の長い髪のその人は、6月半ばには季節外れな紫のスウェードのアウターを身につけ、プリーツのきいたアイボリーのロングスカートを履いている。裸足であったが、そこにまで手が回らなかったのだろうか。彼は女に一瞥(いちべつ)くれると、気持ち足早でその場を立ち去ろうとした。そのとき女から、「充実した人生をお過ごしになられているのね」そう声をかけられた。

 占い師だとしたら珍しい誘い文句だな。彼はそう思った。普通占い師というもの(そうだとしたら)は、「何か悩み事がありそうですね」だの「最近不幸なことがありましたか」といった調子でこちらに擦り寄ってくる。彼は敬虔な自然主義者であり、オカルティズムとは小学生の時に読んだ『オズの魔法使い』を最後に袂(たもと)を分かっていた。「具合が悪いんですか」形式的に彼はそう尋ねた。本心から心配しているわけではない。大人−確固たる社会的地位を築いた大人−として当たり前のことをしたまでだ。日付はまだ変わっていないとはいえ、夜の地下道で中年が妙齢の女性(こちらはぐったりしている)と相見える構図は映りが悪い。彼はそう考えていた。

 「いえ大丈夫です お気遣いありがとうございます」女はそう返し、こちらと目を合わせてきた。先程までは顔の大部分を髪の毛が隠していたためよく視認できなかったが、焦茶の瞳に鼻筋の通った、所謂(いわゆる)美人とカテゴライズされる顔立ちであった。

 「少し考えごとをしていたんです」彼女は続けた。「今までのこと、今のこと、これからのこと、自分のこと、社会のことをぼーっと考えていて、気づいたらこの地下道に座り込んでいたんです。」

 「それは殊勝なことですな」彼はそう返し、「しかし何です こんな時間に一人でしかも人気(ひとけ)のないところに居座るのはよしなさい」年こそ違っていたが、片山にとって、その女は、大人になっていく娘に重ねて見ていた(地下道でしゃがみ込むような大人にはなってほしくないが)。「泊まるあてがないんでしょう これも何かの縁だ 気持ちばかりだが受け取ってくれたまえ」そう云うと、彼は財布から五千円札を取り出し、お供えでもするかのようにそっと女の前に置いた。近頃の物価高騰は目に余るものがあるが、漫画喫茶とモーニングくらいは賄えるであろうと、彼は見取っていた。

 「お気遣いありがとうございます でもこれは受け取れません」女は続けて「お見受けしたところ、貴方は多くの収入を得、社会的地位を確立なされていることでしょう そして地下道の脇で座っている私のような女を、”持たざる者”として憐れんでいるのでしょう」

 「随分と被害者意識のある解釈だな」片山は怪訝そうに彼女を眺めながら、「確かに僕は君を半ば物乞い扱いして、”恵んで”やったかもしれない しかしなんだ それで明日まで生き永らえることができるのなら、それに超したことはないじゃないか?僕はね、強者としての誇りを持ちながらも、弱者への配慮も欠かさない人間なんだよ 分かるかい?」少し憎たらしく彼女に対してそう述べたのは、まさに女の予想通りに、彼女を”持たざる者”として見ていたことを見透かされたように思ったからである。「気分を害したのなら謝るよ あとこれは下げさせてもらうね」そう云って、一度地面に堕とした樋口一葉を拾い上げようとしたとき、彼女は片山の肩をくっと引き寄せ、耳元でこう囁いた。

 「正直なことを申し上げますと、貴方が”持たざる者”で、私が”持てる者”なのです より適切な表現をいたしますと、これからそうなるのです 社会にとって、国家にとって、それは重要な問題ではありません ただ決定的に、貴方と私の関係は先に述べたようなものへと規定されていくのです そのときに、私は貴方を弱者として憂いたりすることはありません ですのでご安心ください」

 「出鱈目な占いなら帰らせてもらうよ」彼は女の手を払い、できる限りの蔑んだ眼差しを浴びせたのち、足早にその場を去った。気色の悪い女だ。彼は珍しく苛立っていた。少しばかり昔の妻に似ていたから気持ち多めに恵んでやったのに、あの態度である。怒りというより不気味さが彼のなかで勝っていた。あの女が地下道の冷気の正体だったんじゃないか、とさえ思った。階段を上がり、七夕の準備が進むあの神社を曲がった先に、私が築いた家が、妻が、娘が待っている。彼は頭の中でそう繰り返しながら、物理的にも精神的にも、先の出来事から距離を置こうと努めた。


 男が財布を掏(す)られたことに気付いたのは、帰宅して直ぐのことであった。


※登場する人物は全てフィクションです。

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