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「ポストコミュニティ」(後編)

本セッションは、アーティストの和田永さんと、僧侶の松本紹圭さんにご登壇いただき、これまでコミュニティの求心力を担ってきた音楽と宗教を軸として「ポストコミュニティ」についてお話いただきます。

後編となる今回ではまず、楽器や掃除といった非言語コミュニケーションが、コミュニティ形成に果たす役割が語られます。続いて、複数のコミュニティに同時に所属する、分人的な在り方の広がりが指摘されます。最後に、オンデマンドに集合と離散を繰り返す、これからのコミュニティの在り方が示唆されます。(前編はこちらから)

本記事は、2019年1月に開催した『METACITY CONFERENCE 2019』の講演内容を記事化したものです。その他登壇者の講演内容はこちらから
・TEXT BY / EDITED BY: Shin Aoyama (VOLOCITEE), Shota Seshimo
・PRESENTED BY: Makuhari Messe

個人的発見をスケールさせる共通言語としての音楽


青木:大変刺激的なお話でした。いろいろ質問を投げかけたいのですが、ポスト・コミュニティというテーマを掲げてるので、まずはそういったところから話を進めてきたいと思います。コミュニティはそもそもどういうきっかけでつくられていくのかを考えたときに、たとえば、生まれ育った場所や家族のような、地縁や血縁もあれば、会社組織のような社縁もありますし、最近では、いわゆる興味関心で集まる知縁というような言い方もありますよね。こうして見ていきますと、松本さんも言われていたように、強制的に人と人との関係を縛るようなコミュニティから、自分の行きたいところに行ってつながるというような状況になってきているようにみえる。それが宗教のかたちをも変えつつあるというわけですよね。和田さんは、こうしたコミュニティの変化という意味で、松本さんのお話をどのように聞いておられましたか。

和田:縦割りになっているところを開くという考え方は、宗教の話かどうかを問わず、自分の興味ともつながってくると思いました。境界線は人工的な概念で、どう区切るか、どうカテゴライズするか、それによって世界はがらりと変わってしまう。そこに掃除という概念を打ち出して、しかも実際に行動しているところが面白いなと思いました。

青木:松本さんは、和田さんのお話についてどのように感じましたか。

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松本:私は仕事柄、どうしても供養という言葉に反応してしまった部分もあるのですが、それとは別に、道具に関する見方を転換している点が面白いと思いました。物であれ人であれ、これはこういうものだというラベルが一度貼られて秩序ができてしまうと、そのあと現実が変化したとしても、頭の中に出来上がった秩序をなかなか手放せないと思うんです。今日会った人も、明日会ったら、あるいは1年後に会ったら、性格も考え方も全然変わっているかもしれないのに、イメージを変えられないというような。

和田さんは、そうして時代遅れになってしまった家電製品に全然別の価値を与え、再生しているようにみえました。しかも、そこで物の見方を転換させられた人たちが、一緒に音楽を奏でたり、盆踊りをしたり、コミュニティのような感じで一緒に楽しんでいる。そこが本当にすごい活動だな、かっこいいなと思いました。

青木:和田さんが人を繋いでいくプロセスは、ものすごいですよね。あれは最初から狙っていたわけではなくて、自然発生的なものなのですか。

和田:そうですね。もともとバンドをつくるとかオーケストラをつくるというところから始まったものでした。偶然出会った人達との化学反応がとにかく面白い。マインドオープンにしていると勝手に磁場が発生しますね。そして海外でやってみて面白かったのは日本語や英語といった言語の違いを超え、手を繋いで電気信号で音を鳴らすというプリミティブなコミュニケーションの形。人が何らかの通信をし合う中からグルーヴが生まれていくんだなと思いました。

ブラウン管で音を鳴らす方法は偶然生まれたもので、やっていくうちにエンジニアの人やデザイナーの人が集まってきてアップデートしていきました。

ブラウン管で音を鳴らす方法を他の人に紹介したときには「説明書にはない使い方を見つけたんです」、「これは取扱説明書を脱皮したものです」というような言い方をしました。その感覚が共有されたときに、他の人からも新しい発見が出てくるという、集合知のような状況が生まれました。どの家電もすでに使い古されたテクノロジーですから、手に届かないすごく最先端のものという感じではない。身近にあるものを知恵を出しながら工夫していく、大喜利のような感じで面白がっていくという感じになっています。そこにワイルドな可能性があると思っています。

青木:ベルリンには、ホルツマルクトといういわゆるコミューン的な場所があります。あるとき、そこがメディア系の企業に買収されて、いろいろなビルを建てられることになったのですが、地域の人たちが集まって反対して、そこを取り戻したということがありました。その中心にいた人がクラブのオーナーで、彼は音楽というのはコミュニティの鼓動なのだと言っていたんですね。それがあるかどうかで、人を結びつける力は圧倒的に変わる。その話を聞いて、意識的なところ以前の段階で、音でつながるなにかがあるのだろうと思ったんですよね。それから、今回の別のセッションにおいても、人がどう集まっていくかを考えるときに、関われる余地があること、そして、そこを自分色に染められること、自分がいてもいいんだと思えることが大切だという話がありました。和田さんの事例は、いまあげたような要素が偶然に積み重なっていったのだなと感じます。

和田:そうですね。まさに鼓動や振動を僕も求めていますね。偶然の出会いと発見と発明の繰り返しかなと思います。

他者とのインターフェースとしての楽器と掃除

松本:楽器って、ユニバーサルなものですが、同時にそれぞれにプロもいますよね。だから、いざやろうと思ったら、ちょっと身構えちゃう部分があると思うんです。でも、たとえばブラウン管テレビや扇風機であれば、おじいちゃんおばあちゃんでも誰でも知っているし、誰でも触れたことがありますよね。もしドローンとか最先端のものであれば、これはそもそもなにかわからないという話にになってしまう。

ぼくが掃除という言い方をしているのは、これに似ているところがあると思うのです。最近はマインドフルネスの流れがあるので、仏教もそこにどう対応するかという難しいミッションがあります。そのときに、ぼくは坐禅じゃないかもしれないなと思っています。坐禅によるメディテーションも大切なのですが、自分の身近なおじいちゃんやおばあちゃんが、瞑想を始める姿はどうしてもイメージできない。もう少しみんなの生活のなかにある普通のものを活かして、その受け止め方を変えたり、クリエイティブに捉え直したりすることで価値が生まれて、広がりが生まれるようなものはないかなと。そのとき、掃除はたしかに音楽を超えていくものだなと思い至ったのです。もちろん音楽もそうですよね。なにかしらのかたちで既に生活のなかにあるものを活かして、コミュニティのフックにしていくのは、すごく広がりが出やすいなと思いました。

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和田:掃除も一種の音楽だと思うんですよね。竹ぼうきのシャッシャッシャという音や精神的な状態は、アンビエント・ミュージックやディープ・ミニマルのようなイメージで、かなりやりたくなってきています。

それから、また楽器につなげてコメントしてしまうのですが、ぼくは自動演奏にはあんまり興味がないんですよね。この先、どんどん音楽が人間ではなく機械によって生み出されるという未来像があったとしても、プレイヤーが演奏をするという楽しみは決して消えないだろうと考えています。そう思うのは、自分にはミュージシャンというかプレイヤー魂があるからですね。リスナー視点で考えると、人工知能がつくった音楽で満たされるということがあると思うのですが、プレイヤー視点で考えると、それは難しい。音楽を演奏したりセッションをやる場合には、人間の身体や感情と、演奏する楽器とを地続きにするインターフェイスが必要になりますね。楽器は波を生み出すものであって、音楽は波でつくられた建築ですから、楽器を使うことを通じて、自分の心の動きと世界の動きをつなげられるようになるのではないかと思います。とすると、掃除という活動も、ひとつの楽器を操ることと同じように、世界と接続するための重要なインターフェイスとして捉えられるのかなと思いました。

松本:楽器も掃除も、世界とも接続するし、他者とも接続しますよね。和田さんのパフォーマンスを見ていたら、セッションのような感じで、どんどん新しい人が入ってきて、輪が広がっていくところが印象的でした。掃除の場合にも、ひとりでしていたらそれはそれでいいのですが、一緒にやろうかと言ってちらほら集まってくると、あのひとはこのへんをやっているから、自分はあのへんに行こうというように、みんなそれぞれ勝手に動いて、チームワークが生まれていきます。コミュニケーションが得意な人は、どんどん喋ることもできますし、それが好きじゃない人は黙々とやることもできます。

青木:ちょっと話が変わるんですけれども、ぼくは家で皿洗いをやるんですね。すると、たまに妻が「ありがとう」と言ってくるのですが、「いや、ありがとうって言いなさんな、私は自分のためにやってる」って答えるのです。どういうことかという、一種の精神統一というか、洗い物をしているとリラックスできて、水に触れていると、集中力も増してくるように思います。掃除というのは、外とつながるだけでなく、自分自身を落ち着けることもできますよね。

ポリ・コミュニティ

掃除の話がいろいろできたところで、改めてお伺いしたいのですが、松本さんは、お寺がコミュニティの中心ではなくなりつつあるなかで、それを取り戻すために、掃除をはじめいろいろな活動をしていらっしゃるのかなと理解しています。そのうえで、いまお寺や宗教組織、あるいはコミュニティが置かれている状況や、乗り越えなければならない問題というのは、どういったものだとお考えでしょうか。

松本:そうですね。たしかに、かつてはコミュニティの中心に宗教であったり宗教組織であったりしたと思います。ただ、その先のビジョンは違っています。私は宗教に関わっている人間ですが、もう一度お寺や宗教の力を取り戻さなければならないというふうには、全然思っていません。こういう言い方が響くかわかりませんが、私は宗教というビジネスモデルはもう終わったのではないか、少なくとも、そういう発想を持っておいたほうがいいのではないかと思うのです。どういうことかというと、宗教というのは、言ってしまえば囲い込みの会員モデルでできているわけですよね。ユーザーに対して、ここに属しますとはっきり決めてもらう必要があったり、あるいは、なんとなく親しくなった人に対して、そろそろどうですか、うちの会員になりませんかって働きかけるような感じですよね。しかし、いまの都市的感覚を持つ人、メトロポリタンな人というのは、こういうものを望んでいないと思うのです。

たとえば、ぼくがツイッターで呼びかけて開催している、テンプルモーニングという、お寺の朝掃除会があるのですが、そこに来ているのは、本当にいろいろな人たちです。ぼくはその人たちに対して、入信しませんか、なんて言いません。入信してほしいとも、別に思っていません。参加者の方々も、そういうことを期待してはいないだろうと思います。ぼくはこれをポスト・レリジョンと呼んでいるのですが、縛り付けるという意味での宗教からは、もう時代が離れつつあると思っています。テクノロジーだって、どんどん進化していきますからね。ただ、そういうなかでも、仲間という存在や、自分の生き方を追求するということが要らなくなるわけではありません。ぼくはそこを追い求めていきたいと思っています。

いままでの宗教組織というのは、入会するかしないか、ゼロかイチかでしたよね。加えて、うちに入ったら、あちらには入れませんよ、という感じでもある。しかし、これからはもう少し変わっていくと思うのです。オンラインサロンのようなかたちで、こちらにも出入りして、あちらにも出入りして、面白い人の話を聴こうという感じになっていくのではないかと考えています。そうなったとしたら、いわゆる宗教者たちは、どのようにマインドセットを転換し、希望を見出していくことができるのでしょうか。うちの教団は会員が何人だから、もっと伸ばしていかなければという発想自体を捨てる必要があると思います。そして、もっとメタな視点から価値を出すようにシフトする必要があるかと思います。

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和田:まさに、そういう考え方なら身近に感じられますね。先ほど、キリスト教徒でありながら哲学という意味で仏教に関心がある方の話をされていましたが、ぼくもそうなんです。仏教に属したいというよりも、そこで培われてきた哲学や考え方を自分が吸収して、今の状況を判断する、そのためのひとつの座標として聞きたいと思っています。

松本:檀家になろうなんて、いきなり思わないですよね。檀家とか信者とか、そういう話じゃないわけです。

和田:それから、ぼくの場合は、伝統というよりも、新たにつくりたいという感覚が強いんですよね。たとえば、日本人でありながら、精神的には扇風機を弾くファンタール人である。あるいは、テレビを叩くテレタール人だ、というような感じで、新たな名前をつけたい気持ちがあります。そうしてどんどん名前をつけていって、日本人とファンタール人のマルチな存在になったり、さらに選択肢を増やして、クォーターになったり。そういうなかに仏教も取り入れて、どんどんミックスしていったらどうかなと思うんですよね。DJ的な発想っていうのは、そういう意識状態で行われるものだと思っているんです。さらに、インターネットが出てきてからは世界が多層的になっているから、マルチなチャンネルを持つことの方がリアルになってきているというか。

少し話が飛びますけれども、想像の共同体という言葉がありますよね。共同体というものは、すべて想像上のものであって、それがつながっていたり結びついていたりするようにみえるのは、ひとつの妄想でしかないのではないかという考え方です。このような考え方をもう少し前提として共有すると見えてくる視点があるというか、これが本当にしっかりとした共同体ですよというようなものがあるわけではない。もちろん、少人数の村であれば実際のところはつながりやすいと思いますけれども、大規模になっていった場合には、それは虚構ですよね。そういうふうに考えられると、縦割りのコミュニティをぶち抜く、あるいは斜めに切る、渦巻き型に繋がる、みたいな新たなコミュニティの発想が生まれてくるかもしれないと思います。

生成/解体し続けるものとしてのコミュニティ──セッションあるいは落ち葉掃除──

松本:コミュニティの境界は曖昧で、常に揺らいでいますよね。先ほども少しお話したように、いままでの見方というのは、コミュニティについてどうしてもレリジャスに捉えがちというか、この人はこのコミュニティに属していて、あの人はあのコミュニティに属していて、というように、所属がはっきり決まっているという前提で考えがちだったのではないかとぼくは思います。でも、いまのコミュニティというのは、常にフォロワー数が増減しているような感覚に近い。きっちり区分けできるようなものではなく、緩やかに、常に動きながら、境界が曖昧ななかで生成され続ける。そういうものとして捉えないと、なにか取りこぼしがあるのではないかと思います。

和田:それを具体的につくっていこうというときに、どういう方法論があるんでしょうかね。いろいろあるとは思うのですが。

青木:和田さんの電磁部族がは、まさにそういったものではないでしょうか。これまでのコミュニティにあった恐れや縛り、契約的なものが時代とともに変化し、多層的なコミュニティができつつある。そういうなかで生きている人たちの心をつかむためには、縛るのではなく、なにかを生成し続けるという要素が重要なのではないかと思います。さらに、その姿に感化された人が出てくるかもしれないですし。和田さんの活動は、そういった新しいコミュニティのありかたそのものなのではないかとぼくは感じますけれども。

和田:そういう意味でいうと、次にぼくがやりたいことは、楽器のつくり方を流布させることなんです。こういうふうにやったらつくれますよっていう情報ですよね。誰かがそれで曲をつくってもいいし、勝手にアップデートしてもいい。国境なき電磁楽団みたいな感じで、どこか知らない国の人が、ブラウン管で演奏していたら面白いなって思います。

青木:わはは、面白いですね。オリンピックに向けてそのお祭りをここでやって、終わったあとにみんなで掃除をすればいいかな。

和田:なんか、まとめに入っていますね(笑)。

青木:いやいや、本当はもっとお話したいんですけれどもね。最後にひとつ質問を投げかけるとすると、いま議論されてきたような新しいコミュニティを維持していくためには、生成を続けるという方法以外で、ほかにどのようなものがあるんでしょうかね。具体的にどういうふうに共同体をメンテナンスしていけばいいのかなと。

和田:ぼく自身は、毎日のように偶然や出会い、なにかが起きる、生まれるという感覚を味わっているのですが、そういう偶発性みたいなものが発生する仕組みを人との距離感のある都市のなかにつくれるといいかもしれないですね。

青木:偶然が生まれるようなルールがあるといいのかもしれないですね。人を縛るルールではなく、アフォーダンスのような感じで、そこにいる人の行動を誘発するようなものというか。

松本:いま和田さんがおっしゃったことは、本当にそうだなと思っています。コミュニティをどうやって維持するかとか、管理するかとかっていう発想自体を捨てる必要があるのではないでしょうか。
意図が強すぎると、エゴになってしまうわけですよ。どうしてもここにコミュニティがなければいけない、そういう気持ち自体が恐れなわけです。その恐れは肥大化していくし、エゴは集合化していく。その結果、ものすごく風通しが悪くなっていくわけですよ。

和田:そうなんですよね。だから、ぼくも掃除しますと言って加わり、またすぐ離散する。そういう刹那的なものでいいんじゃないかと思いますね。コミュニケーションが成り立つかもしれない、という可能性だけがあればよくて。

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松本:掃除で言えば、落ち葉はずっと落ち続けるので、終わりはないということです。いつまでも完成しないのです。

和田:どんどん変化しながら、落ちる葉っぱを掃除して、また落ちてきてというのを繰り返していくわけですよね。やっぱり、アンビエントなミニマル・ミュージックですね。そしていまという瞬間につながる。青木さんがセッションという言葉を出されていましたが、まさにセッションですね。

青木:いろいろな場面でセッションをやっていけるような状況をつくること、そして、そこにほかのひとが関われる余地を用意しておくことが重要だというまとめでよいでしょうか。お時間がきてしまったので、今回はこのへんで議論を終えたいと思います。みなさん、長時間どうもありがとうございました。

一同:ありがとうございました。

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登壇者プロフィール

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和田 永|EI WADA
ミュージシャン/アーティスト。1987年東京生まれ。物心ついた頃に、ブラウン管テレビが埋め込まれた巨大な蟹の足の塔がそびえ立っている場所で、音楽の祭典が待っていると確信する。しかしある時、地球にはそんな場所はないと友人に教えられ、自分でつくるしかないと今に至る。大学在籍中よりアーティスト/ミュージシャンとして音楽と美術の間の領域で活動を開始。オープンリール式テープレコーダーを楽器として演奏するグループ「Open Reel Ensemble」を結成してライブ活動を展開する傍ら、ブラウン管テレビを楽器として演奏するパフォーマンス「Braun Tube Jazz Band」にて第13回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞を受賞。各国でライブや展示活動を展開。ISSEY MIYAKEのパリコレクションでは、11回に渡り音楽に携わった。2015年よりあらゆる人々を巻き込みながら役割を終えた電化製品を電子楽器として蘇生させ合奏する祭典をつくるプロジェクト「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」を始動させて取り組んでいる。その成果により、第68回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。またアルス・エレクトロニカが主催する世界最大のメディアアート賞Prix Ars ElectronicaとStarts Prize ‘18にて栄誉賞をW受賞する。

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松本 紹圭|SHOKEI MATSUMOTO
1979年北海道生まれ。ひじり。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、8年間で650名以上の宗派や地域を超えた若手僧侶の卒業生を輩出。『こころを磨くSOJIの習慣』(ディスカバートゥエンティワン)他、著書多数。noteにて定期購読マガジン「松本紹圭の方丈庵」配信中。


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青木 竜太|RYUTA AOKI
コンセプトデザイナー・社会彫刻家。ヴォロシティ株式会社 代表取締役社長、株式会社オルタナティヴ・マシン 共同創業者、株式会社無茶苦茶 共同創業者。その他「Art Hack Day」、「The TEA-ROOM」、「ALIFE Lab.」、「METACITY」などの共同設立者兼ディレクターも兼任。主にアートサイエンス分野でプロジェクトや展覧会のプロデュース、アート作品の制作を行う。価値創造を支える目に見えない構造の設計を得意とする。
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