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家継ぐ人々 築120年ロシアの古民家に私が住む理由

シベリア鉄道に乗ってロシアを周り、いろんな人の話を聞くプロジェクトМесто47。今回から三回に渡り「家継ぐ人々」と題して、家をめぐる様ざまな人々の話をご紹介します。ロシアは日本と異なり、古い建物を取り壊して立て直すということを滅多にしません。丁寧に修復保全を行い、歴史ある建物群を保護しています。住民としては不便なことは多々ありつつも、それを許容する文化がロシアには根付いています。しかし、そのような考えに反するような動きも地方ではあるようです。今回のお話の主人公であるコンスタンティンは、彼の一家が代々住んできた家が取り壊しの危機にさらされた時、それを守る決断をしました。

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コンスタンティン 自動車工

私の苗字はレベジェフと言います。ただしこの苗字は偽名であったと思います。祖母はクリミアのタタール人でした。祖父はソロヴェツキー収容所(編注:ソ連時代の強制収容所)に居ましたが、弟とそこから逃げ出しました。その後、弟と分かれた祖父は名前を変えて地下に潜ったのです。祖父がいったい何者だったのか、私たちは知りません。祖父は自分の過去について一言もしゃべりませんでした。

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祖父は航空機工場の所長をしていて、父も航空機の設計エンジニアとして働いていました。父は四六時中ベラモルカナル(編注:ソ連時代の廉価たばこ)を吸って肺ガンで亡くなりました。今でも父の使っていた灰皿を取ってあります。両親の教育方針はバランスがとれていたと思います。父は厳しいけれど公平な人で、母は温かくやさしい人でした。私は子供のころからいろいろなものをばらしていました。おもちゃ、洗濯機、レコーダー。どんな仕組みになってるか知りたかったんです。時々分解したものを元に戻せなかったこともありましたけど、そのことで怒られた記憶はありません。そのおかげで手先が器用になりました。

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その時に身に着けたことは、家を自分で修理する時にとても役に立っています。この家には私の家族が1949年から住んでいます。曾祖母が曾祖父と、祖母が祖父と、そして今私が家族と住んでいます。うまく湿気を防いでちゃんと手入れしていれば、まだ長く住めると思いますよ。

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家自体は1900年に建てられたものです。その当時、家具付きアパートの需要が高まっていました。地方に知識人のコミュニティが形成されつつあったのですが、彼らは家畜小屋の付いた木造家屋には住みたがらなかったんです。家は4つの居住スペースに分かれていました。革命後、ソ連政府は内壁を取り払って一つのスペースにすると、収容人数を増やして一か所に詰め込んだわけです。

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今までに家を出るタイミングは何度かありましたけど、結局ここに残る決断をしました。20年ほど前のことですが、カザン市で老朽化した住居を撤去する計画が持ち上がりました。その当時、旧市街にある家はどれもほとんど手入れされておらず激しく老朽化していました。計画によって、ほとんどの家屋が一気に取り壊されました。妻と出会った時の我が家の外観もお世辞にもきれいとは言えませんでした。外装もはげてましたし。妻の友達はみんな「あんたの彼ってスラム街に住んでるんでしょ?」みたいなことを言っていたようです。その頃、街の中心に住んでいたのは低所得者層が多かったのです。私たちの家も例の計画の対象になってしまいました。でもみんなが立ち退きに賛成だったわけではありません。我が家の場合はちゃんと手入れをして住んでいましたし。行政側は力づくで私たちを退去させようとしました。現在、私たちは法治国家に住んでいますが、90年代は混沌の時代でした。

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立ち退きに同意した人たちのほとんどは電気水道のない、ネズミが走り回るような朽ちかけたアパートに住んでいたので、彼らは無償で提供された新品のアパートへ喜んで移っていきました。でも私たちの場合は事情が異なります。街の中心で便利なところでしたし、小学校や商店も近くにありまます。中心地の環境はどんどん良くなっていました。それに、例え立ち退きに同意したところで、同じだけの広さのアパートが与えられないのは明らかでした。

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立ち退こうとしない相手をどうやって追い出すか。家に火をつけてやってもいいし、適当に犯罪をでっち上げてやるのもいいわけです。行政側は裁判所の決定を利用して私たちを脅し始めました。ある日玄関先に人が現れ、立ち退きを要求したんです。当時私は二十歳でした。私は意を決して、まず裁判所の判決文を分析しました。そして戦いののろしを上げるべく控訴したのです。そして最終的に正義を勝ち取りました。こうして家を守り抜き、私たちは今日もこの場所に住んでいるわけです。

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自動車修理工の仕事をしています。日に12時間は働きますね。だから、家は私にとって安らぎの場所なんです。例えるならお気に入りのベッドのような。横になって休めばリフレッシュして元気いっぱい、目標に向かってまた走り出せます。若いころはバイクを乗り回していて、船乗りとして遠い異国を見て周るのを夢見ていました。ジュール・ヴェルヌは全部読みましたよ。でもちょっとして分かったんです。家が一番だって。

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家は力の源だと思っています。ご近所さんの多くは90の声を聞く間近で、もう長らくこの場所に住んでいます。新居への引っ越しの手伝いを頼まれることが多いですが、ここから新しい場所に移り住んでいったお年寄りの大半は一年以内に亡くなっています。たくさんの荷物と共に転居していき、次に家を出る時は棺の中ということもしばしばです。お年寄りにとって新しい場所に移り住むことは簡単なことではありません。

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私はとても幸せです。文句を言ったら罰が当たります。父からはこの家と、仕事に対する倫理観を引き継ぎました。子供が二人いますが、二人とも健康でなんの問題もありません。人間というものは慣れ親しんだものに心地よさを感じるのでしょう。昔から言うじゃないですか。
「習慣、それは神より与えられ、幸福に代わりしもの」って。

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