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哲学ノート⑱時間は有限だ──セネカ

私たちは、生きているうち一体どれだけの時間を、本当に自分のために使っているのだろう。誰もが時間はが有限であることは知っているけれど、それは目に見えない。見えないから、その価値を忘れてしまうことがよくある。お金を貸すのを渋る人も、時間なら簡単に差し出すことがある。セネカにはそれが信じられない。

私は、常々、人に時間を貸せと求める者がおり、求められるほうもいとも簡単に貸し与えてやる者がいるのを見て、驚きの念を禁じえない。時間が求められた目的は、どちらの眼中にもある。だが、時間そのものは、どちらの眼中にもない。まるで求められたものは無であり、与えられたものも無であるかのようにである。時間という何よりも貴重なものを弄んでいるのだ。(※1)29

セネカは、禁欲派として知られるストア派に属した哲学者で、古代ローマの人物だ。ローマ哲学は、ギリシャに比べてスポットライトが当たらない。だけど個人的には、セネカの「いかに生きるか」を執拗に考えぬく姿勢はすごく好きで、高校時代、感銘を受けた。こんなにまっすぐに「生きること」を語る人がいるんだと。

彼が属したストア派は、「ストイック=禁欲的」の語源になっているだけあって、とても厳格で無駄を嫌う。性的本能に振り回されることを唾棄し、時間を浪費することを嫌い、卑俗的なすべてのことを拒否し、豪奢な生活を忌避した。

(人間の中には)ただただ酒と性のためだけに時間を浪費する者も含まれている。何かに忙殺される人間の中でも、彼らほど恥ずべきことに没頭している者はいない。他の者たちは栄光の虚像に捕らえられた者たちであるとはいえ、その過ちはまだしも見栄えがよい。(※2)25-26

酒と色に溺れるよりは、栄光への欲に溺れるほうがまだいいとセネカは言う。だけど、それでもまだ愚かであることに変わりはない。名声を手にしたところで、多くの人から視線を浴びるわずらわしさに引きずり回されるだけだし、富を求めて生きたところで、今度はその管理に追われる羽目になるだろう、と。それよりも時間、自分を生きている時間が何よりも大事なのだ。誰にも邪魔されない、誰のためでもない時間。

人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死であるかのようにすべてを望む。多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。(※3)18

もちろん「そうは言っても働く必要がある」という声はあるだろうが、それを差し引いても、人はいつか死ぬし寿命は有限だ。「いつか」と思っていることがあるなら、それは時間がある今のうちにやっておくべきなのだろう。なにせ、その日が来るまで生きている保証はどこにもないから。

(続)

※1~3:セネカ『生の短さについて』大西英文訳、岩波文庫、2010
     ページ数は引用箇所に記載。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。