学校で教えてほしかったこと

「『親切』ってどうして『親を切る』って書くんですか」
と訊いたことがある。相手は中学校の国語の先生だったが
「わかんねえなあ……。おもしろいこと言うな、お前」
と返事が来て、それっきりだった。その疑問をどう処理すればよいのか、どこや何を調べれば答えに辿り着けるのか、そういうことは何も教えられなかった。

それで今度は、使っていた通信教育(Z会)に電話をして同じことを訊いた。すると、担当してくださった方は興味深そうに話を聞いてくれ、
「君も変なことを疑問に思うんだね。でもそういうときは、漢和辞典を使うといいよ」
と好意的なアドバイスをくれた。私は根が素直なので、おとなしく漢和辞典を引いた。結論として、「親」は「両親」ではなく「親しい」という意味であり、「切」は「切る」ではなく「深い」という意味で取るのがベストだというところに落ち着いた。確かに「切実」という言葉は「身に染みて深く感じる」「半端ではない」ニュアンスがある。「親切」の「切」は、こっちの意味で取るべきだろう。

あの頃から、自分の研究者気質は変わっていないなあと思う。思い返せば、小学校の時は図書室に閉じこもって、理科の分厚い本と向き合っていた。その時はなぜか、炎の研究がしたくて、炎の外側を「外炎(がいえん)」と呼び、内側を「内炎(ないえん)」と呼ぶ……という内容を、延々とノートに取っていた。ちなみに外炎は色が薄く、青に近い。内炎は明るく燃えているように見えるが、外炎よりも温度が低い。真ん中は「炎心(えんしん)」と呼ばれ、もっとも低温である。炎は、外側が一番熱いのだ。

以上の内容は、いま自分がしている哲学の研究とはまるで関係がない。

ただ、「だから無駄だった」とは思わなくて、あれは何事かを調べる練習になったと思う。知らないこととどう向き合うか、誰に教えを仰ぐべきか。ある人に聞いてわからなくても、めげずに他を当たってみること。大事なのは調べた事の内容よりも、自分がその過程で何を得たかであること。

太陽の表面温度は約6000度だ。ハイデッガーは自分の著作を「作品ではない、道である(Wege, nicht Werke.)」と言った。そういう事実なら、いくらでも並べることができるし、そこに並べられた事実だけを見て「そんなのは何の役にも立たない」と言う人は言うだろう。だけど、ここで大事なのは結果ではない。どうやってそこに辿り着いたのか。何かを知りたい、モノにしたいと思った時、そこに手が届くということ。それこそが尊いんじゃないか。

教育っていうのは、答えを教えることじゃないんだよなあ、と近頃おもう。どこへ行こうとも、欲しい答えを探す方法を教えること。そこに尽きるんじゃないか……。教育論をぶち上げる気はないけれど、あのときの国語の先生のことを、今でも時々思い出す。答えてくれなくたっていいから、調べていいよと辞書を貸してほしかった。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。