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争いのない人生を目指せば

人生はいつの間にか争いばかり

僕は、争いごとが嫌いでした。小学生の時は、マラソン大会で、最下位争いがしたくないために、わざともうこれ以上は走れませんという感じを出して、最下位を譲って貰ったくらいでした。親からはもっと頑張りなさいと叱られたのですが、おばあちゃんには本当のことをこっそり話すと、その優しさは素晴らしいと褒められたので、僕の中では、ちょっと誇らしくさえ感じていたのでした。

そんな僕が、どんどん争いごとに巻き込まれるようになりました。ふたり兄弟の僕には、とても優秀な弟がいたのです。僕は母親に毎日のように怒られていたのにも関わらず、弟はめったに怒られませんでした。成績も優秀。

僕はというと、あらゆる教科につまづき、塾に通わされているのに、小学の頃から、赤点の生死ラインを行ったり来たりしていたものでした。その一方で、弟と言えば、80点より下は見たことがない。そんな弟に勝手に僕はライバル心を持つようになっていった。勉強以外で、何かと勝負を挑むようになるのですが、ゲームもスポーツもちやほやされるのも、何ひとつ勝てるものはなく、僕は劣等感のかたまりになっていつもふてくされてしまっていました。

友達や同級生とも争うようになってきたのでした。夏休みの過ごし方や、クリスマスプレゼント。お年玉の金額。持っているおもちゃ。なにもかも、みんなこぞって、自分は凄いぞアピールし競いあっていた。母がとても厳しかったために僕は、どれをとっても負けると分っていたから、よく誤魔化していたのでした。いつも、他人を羨ましがっていたような気がします。学生の頃は、友達どうしなのに、偏差値で競いあいました。

幼い頃は、争わなくても誇れるものがあったのに。僕はいつしか、自分の中に誇れるものが、何一つなくなってしまったのでした。だから、そんな毎日を自分を押さえつけることで、やり過ごそうとしたのでした。

大人になってみると、争い事は激しさを増しました。職場では、争いによって、嫌なことをしてくる人がいると知りました。そんな争いに負けたぼくは、仕事が出来ない奴として、会社のお荷物だといじめられるようになりました。だから、どんなに努力しても、自信を持つことは出来なかった。自信は積み上げていくものだというのに、自信をコツコツ積み上げても、ちょっとした風が吹けば、とたんに崩れてしまうのだから。

今一度、冷静になって、この世を見渡せば、世界は争いだらけじゃないかと思ってしまうのです。今や、ニュースを見れば、今この瞬間に戦争が起きていること痛感します。それだけでも、計り知れないくらい恐怖に感じるのだけれど、ネットはいつも争いばかり。こちらは、いつ自分も巻き込まれるかもしれないと怯えなくてはいけない。

僕らの日常の中でも、争い事は絶えないのです。何でもかんでも、ランキングされて、評価される。それに関わる人たちは、テストの順位が発表される時のように、固唾を呑んで見守っているものです。本にコスメに歌に様々。ネットで調べれば、ありとあらゆるものがランキングで支配されている。飲食店はいつしか数値化されてしまったのでした。僕らは、それに頼り切ってしまうようになり、良いか悪いかを判断するようになってしまった。

この世界の争いごとに、いつしか加担しているのです。

決して、それらを全て批判するものではありません。この世に価値があるかどうかの判断がしやすくなったのですから。外れを引くことは、確かに少なくなったということ。

争いによって、自分の価値を見出せなくなる

そうやって、表示されたものだけで判断するうちに、又は、争いの中で自分という人間の価値を見出そうとするときに、急に苦しくなってしまうのです。

比較競争の中の自分は井の中の蛙でしかないと痛感するからです。この世界のランキングを制さない限り、自分を認めることが出来なくなってしまうのです。だから、そうやって、毎日、悔しさを押し込み、涙を飲み込みながら過ごす人たちばかりではないかと想像してしまうのです。

だから、時にはそんな世界から一歩身を引くことは大事だと思う。自分自身の尊厳を守るためにも。幼かったあの頃の僕のように。争いをさけて、人に最下位を譲った時、僕は自分を尊重することができたのだから。そもそも、人生は他人の評価よりも自分が自分を褒めることが出来れば十分なんだから。

当たり前のことだけど、世界では、色んな異なる意見や価値観を持って、色んな人達とコミュニケーションを取りながら生きていくものです。あなたとは意見や価値観が違いますと言わざるを得ないこともしばしばなんです。つまり、人の数だけ、意見も違えば、価値観も違うものなのです。だから、世の中は複雑で分かりにくい。だからこそ、争いが起きやすくなっているのです。それはお互いの意見の交わりのコミニケーションなんです。ネットはただ、お互いの意見を議論しているに群がっているのに過ぎないのですから。

だけど、僕らは、常にそんな争いの中で生きていかないといけないのです。その世界の中で、何が大切になっていくのかというと、それは、自分が自分の一番の味方でいることだと思うのです。

この世界から、はじき出されても、ランキングが例え圏外であっても、僕に寄り添ってくれたおばあちゃんのように大丈夫だって言えるかどうかなんです。

数年前に犬派か猫派かで、著名人を巻き込んで大論争になったという記事を目にしました。そもそもこの問題はどちらが正解不正解という問題ではありません。コインのどちらが表でどちらかが裏であるかを言い争っているのと同じこと。同じコインはコインであるように、動物を愛してやまないのは同じだったのです。その争いに巻き込まれて、酷いことを言われたり、傷ついてしまうのは、悲しさと虚しさしか残らない。もっと、見るべきところはたくさんあるんじゃないかと、今更ながら思うのでした。

僕の中の人生の争いも、この争いと同じ。勝ち負けじゃないことを思い直したのでした。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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