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「わかる」と「出来る」

分かった時の喜びはかけがえのないもの

子供の頃、分からない問題が解けた瞬間。とても嬉しかった。その喜びがあるからこそ、ある程度、勉強にも打ち込めたような気がします。ついこの前職場で、なかなか上手く作業が出来ないと、ご年配のパートさんが悩んでいました。「こうしたらいいですよ。」って、教えていたら、すぐに要領を得たようで、上手に出来るようになったのでした。その時の、わかった瞬間の喜んだ顔が、すっごくいい笑顔だったのです。

「ああ、分かった時の喜びは、いくつになっても変わらない喜びなんだな。」と感じました。その時に思ったのです。学びを続けることこそ、人生の中で、大きな喜びに繋がっていくものなんだって。

しかし、同時に過去の失敗を思い出しました。仕事で、分かったつもりになって、先輩に「出来ます!」と答えたのに、失敗し、迷惑をかけてしまったし、期待を裏切ってしまったこと。あの時は、悔しかったものです。

それは、「わかる」と「出来る」が全く違うものだということ。

これを、案外理解していないもののように感じるのです。分かったと思った地点で安心してしまうのかもしれません。

あらためて、「わかる」と「出来る」の違いを意識してみたいと感じました。

分かるけど出来ない

スポーツをしている人なら、誰もが経験するものです。僕も学生の頃、父親の会社が健在で羽振りが良いころ、ゴルフをしていた時期がありました。フォームやグリップの握り方など、基礎は頭の中に叩き込んでいました。しかし、いざ実践してみると、グリップはずれているし、フォームは滅茶苦茶でした。そこまで、スポーツに熱心だったわけではありませんが、これまで、何かしようとしたときは、「わかる」と「出来ない」の繰り返してきたものです。

そうしながらも、徐々に出来るようになったものは、繰り返し「反復練習」をしてきたものだけでした。ただの繰り返しは意味がないものです。こうしようと頭で考えて、実践する。上手くできないと、次は、こうしてみようと考えて実践し直す。軌道修正するように、きちんとした目的意識を持って繰り返さなくてはなりません。

このように身体を動かす場合で考えると、「わかる」と「出来る」には、大きな隔たりがあるのにも関わらず、思考のことになると、「わかる」と「」「出来る」が、まるでイコールで結ばれているかのように捉えてしまう。でも、実際は、思考も身体と同じように「わかる」と「出来る」の隔たりは大きいものだと思うのです。

自分をもっと好きになって、豊かにポジティブに人生を歩みたい。そう願い、学んできました。本をのめり込んだように読んだり、高額なセミナーに参加したり。そうしたら、ある日気がついたら、過去の後悔も消え、気持ちは前向きになっていました。僕は、わかった気になっていたのでした。

すっかり、本を読むのも辞めて、学ぼうとする意識すら無くしてしまったのです。もう、自分は大丈夫。思い描いた人生になる。そう思った矢先、詐欺にあって、だまし取られてしまったのです。

あっという間に、過去にひずり込まれて、人生がどん底だった自分に戻されたのでした。そこから、また思うように人生がいかなくなった経験をしました。

人生とは

何度も言いますが、「わかる」と「出来る」は、違うものです。学びを辞めてしまうことは、そんなつもりでなくても、わかったつもりになっていたのです。僕らは学び続けないといけない。そして、学びというものは、日常のあちらこちらに散りばめられています。

人生というものは、限りなくトライアンドエラーであるものだということ。分かったを出来るに変える為の日々であります。そして、それらの真意は、僕らに何度でもチャレンジしていいものだ言うことを教えてくれるものだということのように感じます。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
メルシー

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