見出し画像

「本当の自分」を知っていますか?本当の自分はそもそも1つではないかもしれない。そんな自分探しについて考えてみる話

おはこんばんちは、melodahandsome(メロダハンサム)です。

note開始1ヶ月を目前にして、ビュー数が1,000を超えました。私にとっては一つの大台なわけですが、1投稿に換算したら平均30〜40ビュー。そう考えると決して多いわけではないのですが・・・、これからも地道に頑張ろうと思います。ありがとうございます。

サード・プレイスの議論をリフレイン

最近の仕事はもっぱらコミュニティに関することが多いです。先日、サード・プレイスについて書きました。

そしたら、なんと、産業医の大室正志さんが今度は「サード・プレイス2.0」とか言い出した。3rdなんだか、2.0なんだか、もういろんな数字が出てきて訳わからない(笑)・・・なんて。

この中で言っているのが、役割を求めにいく場所という考え方。

読書会やオンラインサロンなどが分かりやすい例ですが、(従来のサード・プレイスに求められた)役割期待から解放される場所ではなく、あえて自分から役割を求めにいく場所が「サードプレイス2.0」

確かに最近のオンライン・サロンとかを見ても、自らお金を払ってまで仕事を取りに行くようなことも見受けられますよね。これまでの、労働対価としてのお金という考え方が変わり始めている現象が起こっているのは確かです。

仕事における役割が、これまでのように分かりやすく固定化されなくなってきたからでしょうね。
はたらき方が変わったことで、会社員といえども上司と部下の関係も多様化していますし、プロジェクトによって振る舞いも変わる。
あるプロジェクトではメンバーをまとめる立場でも、また別のあるプロジェクトではサポートする立場に回るなど、誰と組むかによってポジションを変える必要があります。

こんな状態だから、同じ職場でも、プロジェクトによってメンバーが違ったり、自分の役割が変わったり、立場の流動化が自分の役割や存在を不明瞭にしていて、結果、個性を見失わせていると。だから、それをサード・プレイスに求め出したのではないかと言うのです。
確かに近年のコミュニティは「所属」から「接続」に変わったと言われていますが、自分の好きなタイミングに関わり、無理なら関わらなくても良いし、抜けても良い・・・そんな気軽さが、ここで言うあえて自分から役割を求めに行ってみようというサード・プレイス2.0的な価値観を生み出した、というのは納得度がありますね。

いろんな顔を持つようになった”私”

先に書いたように、プロジェクトやジョブ型と呼ばれるような働き方も増え、その中で自分の役割や期待される点が変わる中で、自分の見せる顔も当然ながら変わってきます。私もチームのメンバーと話すとき、社外の方々と話すとき、または仕事から離れれば、大学時代の友達と話すとき、高校時代の友達と話す時、家族と話すとき、同じ顔をした私でも、実は違う私がそれぞれに接しています

何もこれは「多重人格」という診断の話ではありません。これを上手く表現してくれたのが平野啓一郎さんの「分人」という考え方でした。著書の『私とは何か』で、

たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、全て「本当の自分」である。(中略)
「個人(Individual)」は「分けられない」という意味だと書いた。本書では、「分人(Dividual)」という新しい単位を導入する。人間を「分けられる」存在とみなすのである。

と言っています。2年前にこの本に出会い、長年の私のモヤモヤを上手く言語してくれたこの考え方に、大いに感銘を受けて、今でも大事にしている視点です。

先ほどの大室さんの話に戻りますが、コミュニケーションの重要性がこれまでにないほど求められる時代において、働き方も多様化し、いろんな「分人」を生み出しながら、いろんな顔で接している涙ぐましい個々人の努力と、その反面、どれが自分なのかがわからなくなってしまい、自分のアイデンティティが揺らぎがちだからこそ、それをサード・プレイスに役割・期待を求めるようになったのではという考察が、私の中で1つの線として繋がりました。

分人は、キャラを演じるとは違い、「本当の自分」である

著者の平野さんは、分人に関してこのようにも書いています。

どうしても、「本当の自分」が、表面的に仮の人格を纏ったり、操作したりしているというイメージになる。問題はその二重性であり、価値の序列である。

分人は、こちらが一方的に決めて演じるものではなくて、あくまで相手との相互作用の中で「自然」に生じるのです。キャラとか仮面という比喩には、表面的というだけでなくて、一旦主体的に決めてしまうと硬直的で、インタラクティブではない印象を持つ分人は、長い時間をかけたコミュニケーションや、関係性の中で変化しうるので、この点で分人とキャラとは別だと説明しているし、私もその通りだと思っています。

そしてこの分人全てが「本当の自分」だと平野さんは言っています。だから、唯一無二の「本当の私」という幻想に捕われて、それを探し求めても、この理論に立てば、どこにも実体がないので見つかるわけはないのですが、それを知ることの重要性に唆されて、非常に多くの苦しみとプレッシャーを受けてきた人が多いのも事実なのではないでしょうか。

これは、私とは何かということを考えるのに重要な示唆だと思います。

ちなみに分人の話をすると、決まって「八方美人」の話が出ます。特に分人という感覚を持ち合わせていない人と話すと出てくることが多いです。分人だらけの私からしたら、この「分人」の感覚がわからない方が驚きなのですが、中にはそういう人もいるんですよね。それはそれですごいなと思います。

これについても平野さんは

八方美人は、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても同じ調子のいい態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。パーティならパーティという場所に対する分人化をしても、その先の一人一人の人間の個性は蔑ろにしている。だから、十把一絡げに扱われた私たちは、「俺だけじゃなくて、みんなにあんな態度か」と八方美人を信用しないのだ

と言っています。これは分人について深く知る、面白い見方ですよね。

自分を好きになる方法

自分のアイデンティティが揺らぎつつある人は、もしかしたらまだ、分人すべてが「本当の自分」だということに気付いていない人なのかもしれません。もしくは、アイデンティティが揺らいでいるわけではないけど、自分の役割を追い求めている人にも同じことが言えるかもしれませんが、これについても分人が良いヒントを与えてくれます。

人はなかなか自分のことが全部好きだとは言えない人が少なくないと思いますが、「誰といる時の自分が好きですか?」という問いになら答えやすくなりませんか?
逆に「誰といる時の自分が嫌い」というのも答えやすいかもしれませんが、こうやって、自分の好きな分人を1〜2見出すだけでも、これを足がかりに自分を知ることができる、そんな考え方を提案したいのです。

先にも書いたように、分人とは相手との相互作用で生じるものなので、主体的・主観的なものでは無いわけです。つまり、誰かといる時の自分が好きという考え方は、必ず一度相手を経由しているということになる。
つまり、自分を愛するためには他者の存在が不可欠で、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な部分だ、という本書の中の解説は非常にわかりやすいですし、好きな分人が増えていくなら、私たちはその分、自分に肯定的になれる(自分のことが好きになれる)・・・という平野さんのまとめは、私にはしっくり来たのです。

サード・プレイス2.0は、自分を好きになれる場所?

以上のことから、このサード・プレイス2.0という大室さんの考え方や、現在のコミュニティの傾向は、私の文脈で解釈し直せば、コミュニティ(他者)を通じて自分のことを好きになろうとしているという一面も見えてきたように思います。

単純に好き嫌いの話では無いかもしれませんが、より自分にしっくり来る、自分が大好きな「分人」を探す旅とでもいうのでしょうか。それを知るためには、既存のファースト・プレイスやセカンド・プレイス、そして従来の「役割・期待から解放されるための」サード・プレイスでは物足りないということなのかもしれません。

役割を求めにいくサード・プレイス2.0という考え方、非常に興味深いので、もう少し深掘りしたいと思いますし、コミュニティを語る上で、私はこの分人という価値観・単位を通じて見ていきたい、そう思うわけです。


最後までご覧いただきありがとうございました。
スキ、コメント、フォローもお願いします。励みになります!
私の自己紹介の投稿はこちらです。一緒にご覧いただけると嬉しいです。


この記事が参加している募集

スキしてみて

いただいたサポートは、私の知見を広げてくださる出会いとの交流に充てます。具体的には、お茶代、本代、もしくはここで繋がった方とのコミュニケーション代などです。それをnoteへの投稿で還元していきたいと思います。