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退職時の親の反対と決意

こんにちは!

今日は、仕事を辞める時に親の反対をどう乗り越えたか?の備忘録です。

親との関係性は、人それぞれかな、と思っています。

「アラサーにもなって、親の反対って!」と思う方もいれば、「うんうん、わかるよ…!」なんて方もいらっしゃるのではないでしょうか。

わたしは退職に対しての親の反対を乗り越えるのに、中々決心がつかなかったタイプです。

この時の気持ちを忘れないように、記録しておきます◎


1.親の意見。

わたしは、幼い頃から父が単身赴任で家におらず、年に数回しか会わないようなちょっと変わった家庭で育ちました。なので、実質ほとんど母が1人で育ててくれましたし、今もそれは変わっていません。

母は1人でわたしと弟の2人を育て上げてくれ、真面目で一生懸命な性格で、そんな母の気持ちにいつも応えたいと、子供ながらにどこかで思っていたのかもしれません。

母と接する中で、何気ない言葉の端端から、母が思う理想の娘像は「いい高校に行き」「いい大学に行き」「大企業に就職する」ことなのだと、幼いながらに感じていました。

そして、そうすることで親孝行になると思っていたわたしはそれなりに一生懸命勉強し、偏差値の高い高校へ進学しました。そのまま何の疑問もなく大学へと進学し、そして就職活動もそれなりに頑張り、世間的にもそこそこ名の知れた一部上場企業へ入社します。

客観的に見れば、「親の敷いたレール」にのかっているような人生でした。ただ、その枠の中でそれなりに自分の趣味を見つけ、友人にも恵まれ、楽しい人生を歩んでいると思っていました。

2.自分の意思。

しかし、そのレールに乗っかっていることに違和感を覚えるようになったのは、社会人になってから数年経った時のことでした。

真面目に一生懸命頑張る中で、過労や人間関係の難しさなど、社会のストレスに押しつぶされる毎日。体も心も、目に見えるように疲弊していきました。

そして、少しずつ色々なバランスを崩し始めたわたしは自分の境遇を親のせいにするようになったのです。

「いい企業に入れって言われたから入ったんだ。」「好きなことをやっていたら、こんなに辛い思いをすることもなかったのに。」「親が悲しむからわたしは会社を辞められない。」…悶々と、日々こんな風に思っていました。

そして、そう思いながらも自分の環境を変えようとはしませんでした。

「辞めたら周りになんて言われるかわからない。」

いつしか周囲の目や世間体を気にすることに過剰に反応するようになり、自分軸を全く持たない人生を歩んでいました。いつも他人ばかりを気にし、自分の境遇を他人のせいにして生きる日々に、自分の意思がなんてまるでありませんでした。

そしてその頃は、この鬱々とした大きな波に飲み込まれ、こうなってしまっている事実さえも気づいていなかったように思います。

何のために働いているのか?この仕事が好きなのか?あとどれだけこの仕事に耐えられるのか?……そもそも耐えるって何だろう。ぼんやりと自問自答を繰り返しながら、変わりばえのない毎日を過ごしていました。

3.親の意見と自分の意思のはざま。

そして、自分の意思をあやふやにしたまま仕事を続けていく中で、心や体が少しずつ悲鳴をあげました。

食欲がなくなったり、睡眠が難しくなったり、月経痛がひどくて仕事に影響が出るようになったり。

そんな状態になっても、わたしはまだ「周囲の目」や「親の意見」に怯え、それらに適応しなければ!と一生懸命だったように思います。自分で自分を抑え込み、わたしさえ我慢して無理してでも仕事を続ければ、誰も悲しまないし、誰にも迷惑をかけないで済む。そんなふうに思っていました。

きっと母もわたしの将来を心配する気持ちが大きかったのか、心身が変な状態なっているわたしを見ても、会社を辞めることに対しては好意的ではありませんでした。

「とりあえず休職をし、体の調子整えてから考えればいい。」

こんな状態になっても「もう辞めたらいいじゃん」と言ってくれないのか…。わたしはそんな風に思っていました。

その言葉を、わたしは望んでいたのだと思います。いい年して、まだまだ、子供だったんですね。

自分の気持ちはだんだんと「辞めたい」方向に向かっていきました。「この仕事でなくてもやっていけるんじゃないか?」「こんなにしんどい思いをするのなら、環境を変えてみてもいいんじゃないのか?」そう思うようになっていました。

4.親と自分は別人格。

そんな中、「このままではいけない」と思い、ヨーガの智慧を学び直すことを決めました。持っていたテキストを1から読み直し、目の前のことでいっぱいいっぱいだったわたし、は様々なヨーガの智慧を思い出しました。

例えば…

「いつまでも、あると思うな、親と金。」

これはヨーガでは「有限・無限」について考えるときによく使われる言葉です。

親は自分よりも早く死んでしまうことが多いですし、お金も無駄遣いしているとだんだんと減っていき、いずれは無くなってしまいますよね。

これらのように、日常を過ごす中で、本当は「有限」であることを「無限」と思ってしまっていることがあるのです。そして、その誤認知こそが、ストレスを生むと原因であるとヨーガでは考えます。

そのほかにも色々なヨーガの教えを学び直し、わたしは何の努力もせず、いつまでも親に頼っていてはいけない、と気づきます。

そしてわたしは「親の人生」ではなく「自分の人生」を生きていかなければならないとハッとするのです。

そうです。わたしはここで初めて、自分の人生を、いつも親のせいにしていたと気づいたのです。なので、親の意見に左右され、心が揺れてしまっていたんですね。

母もまた、自分の人生をわたしに重ねていたのかもしれません。

お互いに、自立できていなかったんですね。

もし、親が死んでしまい、親のせいにできなくなったとき、わたしはどうなってしまっていたのかなと、考えるだけでも怖くなります。

「親と自分は別人格」そう認識できた時、気持ちはとても軽くなりました。

依存心は人を弱くします。脆くします。そして、心はどんどん疲弊します。

わたしにとっては、まずはこの事実に気づけたことがとても大きな前進になりました。

5.多様な考え方を受け入れる。

母の考え方を否定するつもりはありません。

ただ、親だからといって、自分の考え方と必ずしも同じであるとは限らないのです。

自分は自分の考え方をしっかりと「自分軸」で持つこと。

そして、他人の考え方はエッセンスとして取り入れる程度にしておくこと。

そうすると、生きていくことが少し楽に行為できるようになるような気がしています。

わたしが今回身にしみて感じたことは、他人が決めたことに乗っかっていることは、いつまでも他人のせいにする余白を残しておくずるい生き方だということ。

自分が決めたことは、最後まで責任を自分でとることができます。

この「多様な考え方を受け入れる」ことができるようになると、社会の過酷な環境下でも、ストレスを感じにくい心が育てられるのかなと。今振り返ると、そんな風に思えます。

6.等身大の自分で親孝行を。

そしてわたしは自分の意思で「退職」を決意し、自分の意思で「新たな夢」を見つけ、歩き始めました。

もう誰のせいにもできません。自分で決めた道なのです。

自分で決めた道は、自分が死ぬまで自分軸を保ってくれます。

もう1つ、今回のことでわたしが気づいたことは親は子供をそんなに簡単に嫌いになんてならない、そんなに簡単に見放さないということ。

母はわたしの退職にずっと反対していましたが、最後にわたしが別の道を自分で選択した時は、しっかり背中を押してくれました。

きっと母にもたくさんの葛藤があったと思います。

だからこそ、わたしは、背伸びせず、自分を大きく見せたりせず、無理をせず。等身大の自分で。

そんな生き生きとした自分で、母との関係を再構築していくことが、わたしにとっての人生における親孝行の1つなのかもしれません。

7.最後に。

綺麗にまとめて綴りましたが、この過程は本当に長く、苦しいものでした。

自分の認識を改めるということは簡単にできることではないし、思考には人それぞれ癖があるんですね。

何が正しいかなんてわからないし、世の中には情報が溢れすぎています。

これからは自分から目を背けることなく、人の意見はただ淡々と受け入れる。そんな強い生き方ができるといいなと思います。

それではまた◎

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