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【リヨン留学記】1話目:大きな風に包まれたなら

 わたしがリヨンに着いた日は、立っているのがむずかしいほど大きな風が吹いた日だった。びゅうっと耳の中で大きな風鳴りが響き、落ち葉やら紙やらが夏の名残を残したぼやけた青空の中へと舞い上がって消えてゆく。
「大きな風に包まれたら、それは幸福の兆しである」という、いつの頃かわたしが勝手に作り出したジンクスを、わたしは未だに盲目的に信じこんでいる。そしてそれは今回もちゃんと当たったわけだ。

 リヨンを訪れるまでに観光とアートの勉強のためにイタリアのミラノにいたわたしは、高速列車のTGVに乗って西へと移動しリヨンに着いた。そしてリヨンのセントラル駅であるGare de Lyon-Part-Dieu(リヨン・パールデュー駅)で降りたのである。
 時刻は午前11時を少し過ぎたあたりで、列車は20分ほど遅れて到着した。ずるずるとスーツケースを引きずってホームから出るための階段を降りつつ、わたしは遅刻してしまったと少しばかり焦っていた。留学の間は70を過ぎた老夫婦の家の一室を借りる予定で、駅までホストファミリーがわたしを迎えに来てくれることになっていたのである。
 きょろきょろとそれらしい人がいないか探していると、妙に目を引かれるおばあちゃんがいた。彼女はまるで生まれたての子猫のように華奢で、他のフランス人と比べると縮尺が違うのではないかと思うほど一際小さい。彼女を見ていたわたしの頭の中には、ロード・オブ・ザ・リングのホビット族が浮かんでいた。格好はというと、ショートカットのシルバーヘアに淡いピンクとグリーンのボーダーのニット、そして膝頭が見えるほどの白いスポーティーなミニスカートを履いている。年齢なんて気にしていないその姿がとてもチャーミングで、わたしは一目で彼女が好きになった。
「あ、きっとこの人だ」という、到底理由なんて説明できない直感がはたらき、わたしはまっすぐに彼女の元へ向かった。そして「Bonjour, Je suis Megumi(こんにちは、メグミです)」とわたしが言うと、彼女はすぐに事態を飲み込み、いたずらっぽくニカッと笑った。それから「ずいぶん遅れたのね」と眉根を寄せた。「電車が遅れたの、ごめんなさい」と告げながら、彼女の後を着いて行く。外に出ると、生ぬるく人を切なくさせる、夏のおわりの匂いがした。
 彼女の名前はオディールといった。そしてロータリーには彼女の旦那さんであるヘンリがいて、恰幅の良いお腹を突き出して車の前に立っている。ヘンリは優しそうな目がぎょろっと大きくて、その姿はわたしにピカソを連想させた。

 スーツケースをトランクに詰め、3人を乗せて車は走り出した。
「Megumi、カメラはちゃんとカバンにしまっておくんだよ。泥棒がいて危ないからね」
 5分も経たないうちに、ヘンリがわたしにそう言った。
 わたしはリヨンに来る電車の中で一眼レフを使い写真を撮っていて、そして慌てて降りたために無造作に首から下げたままになっていたのだ。スリなどが多いフランスにいるにも関わらず、金目のものをあけっぴろげに持っていたわたしの姿が心配だったらしい。まるで本物のお父さんのような口調でそんな注意を受けながら、わたしもやっぱり子どものように注意なんてあまり聞かず、はじめて見るリヨンの街並みに夢中になっていた。
 フランス第2の都市なんて呼ばれているから日本の地方都市のようなものを想像していたが、リヨンはいわゆる都会と聞いてわたしが想像するような場所とは違っていた。確かにGare de Lyon-Part-Dieuにはルミネのような大きな商業施設もあるし、ビルもたくさんあるし、お店も路面電車やメトロなどのインフラの設備も大きな病院も、生活に必要なものはすべてちゃんと揃っている。けれども、おばあちゃんが営んでいる昔ながらのお菓子屋さんに紛れ込んだかのような、どこか素朴な安心感があるのである。それは東京やパリにはない空気だった。
 数十分も車を走らせると、オディールとヘンリのアパルトマンに着いた。
 重厚な木のドアを開けると螺旋階段のあるホールがあり、なぜだかそこはいつもローストした鶏肉のおいしそうな匂いがした。
 彼らの部屋は、日本の数え方だと2階。フランスの数え方だと1階。フランスの場合1階は le rez-de-chausséと呼ばれ、日本でいうところの2階から階を数えはじめるのだ。
 3人もいる子どもたちのためにより大きな家を求めてリヨンに越して来たという彼らの家は、さすがと言うべきか広かった。夫婦の寝室、ひろびろとしたサロン、書斎、キッチンダイニング、2つの客室に2つのお風呂。わたしは古い脚付きのチェストが置かれた客室に通された。おそらく以前は子ども部屋として使われていたのだろう。ベッドにはかわいらしい花柄のシーツがかかっている。隣にあるもうひとつの客室には、スペインから来ているというグラマラスな美女の留学生がいて、会うなり大きな目をさらに大きく開けて明るく挨拶をしてくれた。
 荷物を部屋に置き、それからわたしはおそらくウォルナット材だと思われるカラメルを煮詰めたような重たいブラウンをしたチェストやソファが置かれたサロンへ行き、窓から見える眩しいローヌ川を眺めた。ローヌ川は川幅が広く、とてもゆったりとした川で、見る人の心を大らかにする。
 わたしはとても満ち足りた気持ちだった。美しい家と景色、おいしそうな匂い、晴れ渡った空に陽気で優しい人たち。人生にこれ以上何を求めたら良いのだろう。
 正直ここに来るまで、暮らして行くために貯めたお金で何をやっているんだろうと、不安がなかったわけではない。だって当初は、東京で家を借りようとしていたのだから。
 けれども来て良かったのだ。
 まだリヨンに来て1時間も経っていないというのに、わたしはそう確信していたのだった。

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