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今日も、読書。 |【岸政彦作品】ままならない思考と、日常の断片

岸政彦さんの本で描かれているのは、私たちが日々過ごす、日常の断片です。


どこかの街の航空写真の、どこかの中層マンションの、どこかの角部屋の窓から漏れる、ほのかな明かり。

どこかの街の午前8時、駅に吸い込まれる人と吐き出される人、たった今駅からどっと溢れ出てきた人の流れの、その中のひとり。

そんな不特定多数の、不特定な瞬間の何気ない日常、でも当人からすればそれがすべてである日常を、強調も脚色もすることなく、私たちの前にぽんと提示します。


読書は非日常を読むものというイメージがありますが、岸さんの本は、私のものではない誰かの日常を読むものです。

そして同時に、私自身の日常を読むものでもあります。

きらめきも感動もないごく普通の日常、でも何かが心に残る日常の断片を読み、自身の人生を顧みるような読書。

慌ただしく過ぎていく人生で、本を読むことで立ち止まる時間を与えてくれる。そんな本は貴重だと思います。



岸政彦作品を読む。


断片的なものの社会学

路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ……人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。

◆「この本は何も教えてはくれない。
  ただ深く豊かに惑うだけだ。
  そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。
  小石や犬のように。
  私はこの本を必要としている。」

一生に一度はこういう本を書いてみたいと感じるような書でした。ランダムに何度でも読み返す本となりそうです。 ——星野智幸さん


本書で書かれているのは、岸さんが見聞きした出来事を火種に発展していく、ままならない思考の断片。

安易に結論が出せないこと、「ほんとうにどうしていいかわからない」こと、そんな悩ましい思考のかけらが、現れては過ぎていきます。


この本には結論がありません。結論がないということはすなわち、余白があるということ。

だからこそ、読者に考える余地が生まれます。本に誘導されることなく、自身の考えに直接触れることができる。

たとえそれが、岸さんと同じく、結論に辿り着けないものであっても良いのです。


社会学者として、市井の人々にインタビューをする岸さん。その書き起こしがそのまま載っている章もあります。

インタビューで切り取られた、普通の人の普通の人生の一片に、どうしようもなく心が揺さぶられます。

それはなぜだろう、と考える。普段は気にすることのない問いを自分に問いかけて不思議に思う、自分との対話を楽しむ読書でした。


大阪

大阪へ来た人、大阪を出た人──かつていた場所と今いる場所が「私」を通して交差する。街と人の呼吸を活写した初共著エッセイ。


小説家の柴崎友香さんとの共著。タイトルの通り、「大阪」という街について書かれたエッセイです。

岸さんは大学生の時に大阪に移り住み、柴崎さんは20代後半で生まれ育った大阪を出ました。

大阪は、岸さんにとっては「私がやってきた街」、柴崎さんにとっては「私がいなくなった街」。

それぞれの視点で大阪を書くことで、徐々にその姿が浮かび上がってきます。


私たちはそれぞれ、自分が生まれた街、育った街、やってきた街、働いて酒を飲んでいる街、出ていった街について書いた。私たちは要するに、私たち自身の人生を書いたのだ。

p7より引用

本書における「大阪」は、単なる地理的な位置や境界のことを指すだけではありません。

大阪という場所で流れる「時間」のことも指しており、そこで生きる人々のこと、彼らの「人生」も指しています。

「人」にフォーカスを当てて土地を描くことが面白い。そしてその視点こそが、その土地を本当の意味で理解することなのだと気付かされます。


自身が幼少期を過ごした街、学生時代を過ごした街、社会人として今暮らしている街。本書を読んでいると、自身に関わるすべての街での生活のことが思い出されます。

過去には戻れないという当たり前のこと、その胸を刺すような痛みを、そのまま優しく包み込んで抱き寄せてくれるような本でした。


図書室

定職も貯金もある。一人暮らしだけど不満はない。ただ、近頃は老いを意識することが多い。そして思い出されるのは、小学生の頃に通った、あの古い公民館の小さな図書室――大阪でつましく暮らす中年女性の半生を描いた、温もりと抒情に満ちた三島賞候補作。社会学者の著者が同じ大阪での人生を綴る書下ろしエッセイを併録。


本書はこれまでの2冊と異なり、小説です。岸さんの本は、小説も良いのです。


よくある小説の登場人物たちの会話文は、時にお芝居の台本を読んでいるような感覚を伴います。

本来であれば無数に飛び交っている余計な言葉が取捨選択され、必要な分だけが著者によって切り取られている、そんな感覚。

岸さんの小説は、そんな感覚が不思議と存在しないのです。

描かれているのは、そこにある会話の垂れ流し。岸さんの会話文には、リアルな日常会話に近い感覚があります。まさにエッセイと同じような感覚です。


また、小説の舞台となる大阪の街の情景描写も、解像度が高くて素敵です。

まるで自分が本当に大阪の道ゆく人々を観察しているような、その観察の視線の動きまでが自分のものとして追体験されるような、そんな恐ろしいまでのリアルさがあります。

大阪の雑踏の雰囲気が、すぐそばでリアルな感覚として感じられるのです。


「現実」と「虚構」の境界があるとして、岸さんの小説は、限りなく現実に近い虚構の側にあります。他の小説は、もっと虚構に寄っている。

その感覚が癖になり、ページを繰る手が止まらなくなります。



たとえば、「大阪の人は声が大きい」「大阪では話にオチが求められる」。

そんな外部の人が持つステレオタイプでは到底表現できない、ひとりひとりの実生活と地続きの、生きている空間、暮らしている時間。

岸さんの本に在るのは、そんな時間と空間の、ままならない思考と、日常の断片です。

他者の日常を読むことで、自身の日常に立ち返る。この感覚が好きで、私は今日も岸さんの本を読みます。




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