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今日も、読書。 |平家物語と、読書でイタリア探訪

2022.4.10 Sun

カラ兄:中巻 140ページ

1月から視聴してきた、アニメ「平家物語」を観了。

これは皆さん観てほしい。名作だった。

800年も前の文学作品『平家物語』を、アニメーションとして現代に蘇らせた本作。細部まで行き届いた映像美、音楽と芸能の融合、エンタメ要素と教養のバランス、そしてオリジナルな魅力を持つキャラクターたち。

繊細で美しい作品だけど、アニメ史に残る作品を作ろうという、制作陣の熱意も強く感じた。どこをとっても私好みで、これまで観てきたアニメの中でも、圧倒的に1位である。


ここから先の話は、アニメ平家物語に関するネタバレが、含まれているかもしれない。数百年前の作品を取り扱っているため、どこからが、そしてどこまでがネタバレなのかわからないけれど、私はこのアニメ作品を、できるだけまっさらな状態で、楽しんでほしいと思う。そして観終えた後にもう一度ここへ戻ってきて、その感動を分かち合うことができたら、嬉しい。


本作のキーパーソンのひとり、「びわ」とは何者だったのかについて、考える。

琵琶法師の娘・びわは、平家に父親を殺され、ひとりになったところを平重盛に拾われる形で、平家物語の中に入り込んでいく。彼女には、未来の映像が見える眼を持つという、不思議な力があった。

びわに与えられた役割のひとつは、私たち視聴者の目線をアニメの中に持ち込むことだろう。彼女の目線に立つことで、私たちは作品に入り込みやすくなる。彼女は作中で唯一歳を取らない、異質な存在だ。平家物語の中に放り込まれた、第三者=視聴者としての役割が、彼女にはある。

彼女が持つ不思議な眼と、それを通して見える死者や未来の映像も、その役割を果たす。

平家物語は学校でも習う有名な作品で、私たちは大体の筋書きを既に知っている。彼女の能力を通じて私たちは、この物語で活躍し、散っていく者たちの運命を思い出す。やがて源氏に滅ぼされる、平家の儚い最期を突きつけられ、現実に引き戻される。その過去や未来の映像と、現在の平家の営みを比較し、何とも言えない、切ない感情に浸る。

しかし、彼女にはこの視聴者の分身として以上の、特別な役割があったように思える。決して平家物語の本筋を変えることはないけれど、このアニメ作品に不可欠な、もうひとつの役割があったのではないか。



2022.4.11 Mon

241日目。

カラ兄:中巻 159ページ

平家物語は、琵琶法師たちの平曲によって伝えられてきたという、歴史的な背景を持つ。

びわは、琵琶法師だ。作中に幾度となく登場する、白くて長い髪の「大人びわ」は、平家の人々の活躍を節にのせて歌う。子供びわも、物語の中で何度も琵琶の音色を奏でる。

びわは物語の中盤で、一度平家と別れる。この辺りから、平家を近くで観察する視聴者の役割とは別の、彼女に与えられたもうひとつの役割があるのではないかと、考え始めた。

彼女は眼を通して、ひとりまたひとりと死にゆく、平家の者たちの姿を見る。

「びわには何もできない」

自分は未来が見えるだけで、それを変える力がない。彼女はそんな自分を、役立たずだと責めることになる。既に筋書きが決まっている歴史物語の中で、それに抗おうと苦悩するびわに、第三者ではない、平家物語の登場人物のひとりとしての役割が宿る。

やがて彼女は、運命を変えることはできなくとも、祈ること、そして語ることはできるということに気づく。かつて栄華を誇った平家は、滅びゆく運命にある。しかし、平家の者たちが確かに存在したという証を、語り継ぐことはできる。彼女はそこに、自らの役割を見出していく。

見聞きしたことを、後世に語り継ぐ行為。その行為によって人は、たとえ消えゆく定めであっても、存在していた意味を与えられるのではないか。語り継ぐことに、意味がある。平家物語として存在することに、平家の生きた意味がある。

『平家物語』は、もちろん平家の人々が主人公の、彼らの栄枯必衰の歴史物語だ。

しかし同時に、アニメ「平家物語」は、『平家物語』が出来上がるまでの物語でもあったのだと思う。なぜ『平家物語』という作品が生まれ、語り継がれてきたのか、その祈りの物語。そして、その物語の主人公は、びわだった。このもうひとつの物語の存在が、アニメ「平家物語」に、より大きな感動をもたらしていた。



2022.4.12 Tue

242日目。

カラ兄:中巻 197ページ

アニメ平家物語を観た興奮冷めやらず、公式の関連本を買ってしまった。『わたしたちが描いたアニメーション「平家物語」』。新宿の紀伊國屋書店で購入。

本書には、監督の山田尚子さんのエッセイが挿し込まれている。アニメ「平家物語」の構想がどのようにして生まれ、どのように形になっていったのか、その経緯が語られている。

人を感動させる創作には、制作に関わる人々のこだわりや熱意が、これでもかというほど込められているのだと、気づかされる。たとえそれが、巧妙に隠され、消費者の側には見えないようになっていたとしても。そんな舞台裏の熱量を感じられる、とても良い本だった。



2022.4.13 Wed

243日目。

カラ兄:中巻 197ページ

読書で、イタリア探訪。

私にとってイタリアという国は、大学で歴史や文化を学んでいた国であり、留学生として1年近く暮らした国であり、日本に次いで馴染みのある国だと思う。そのせいか他の人に比べて、イタリアに関する本を、多く読んでいるような気がする。いや、多く読んではいないにしても、他より好きな気がする。

読書で、イタリアを旅しよう。今日から何回か、そういうテーマで選書した作品たちを、ゆるゆると紹介していきたい。

内田洋子さんのエッセイは、どれも本当に良い。一編が丁度良い長さで、主題も表現の仕方も素敵で、何より読後の余韻が心地良い。読後の余韻に浸るために、読書をする感覚。大小様々の宝石が詰まった宝箱のような、そんなエッセイ集たち。

内田洋子さんは、イタリアを拠点にお仕事をされている方だ。そのため日本人だけれど、「イタリア側」の視点を持っている。その視点がエッセイに深みをもたらし、唯一無二の作風ができあがっているように思う。

彼女のエッセイには、短期間で観光するだけでは見えてこない、ディープで、ありのままのイタリアが描かれている。イタリアで暮らす普通の人々の人生に深く切り込んでいき、彼女独自の豊かな視点で、瑞々しく美しい文章が紡がれていく。

どのエッセイからも、「イタリアらしさ」を感じる。イタリアらしさとは何かという議論はあるだろうが、ここではいったん脇に置いておいて、彼女の作品からはイタリアの雰囲気を堪能することができる。

しかし同時に、日本や他の国にも通じるような、「人生とは」という普遍的なテーマが込められているように感じる。時の流れの切なさや残酷さ。人生を左右する出会いと別れ。そんな人生の中にある小さな物語が、切り取られている。

ひとりひとりの人生が魅せる、普通だけれど、心を打つ物語。自分事に置き換えて読むと心に刺さる、そんなエッセイの波に揺られ、そしてそこには、イタリアの街角の風景が広がっている。



2022.4.14 Thu

244日目。

カラ兄:中巻 197ページ

「イタリア エッセイ」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、須賀敦子さんだろう。

須賀敦子さんは、29歳から13年間を、イタリアで過ごされてきた経歴を持つ。文筆業を始められたのは56歳と遅く、イタリアで過ごした日々を回顧するように、素晴らしいエッセイを数多く発表した。文学全集などでもその名を目にし、大学の講義でも取り上げられるほどの、とにかくすごい方だ。

大学時代の親友が須賀敦子さんを敬愛していて、卒業論文のテーマも「須賀敦子の文学的功績」みたいなものだった。そのため個人的に須賀敦子さんは身近で、勧められるがままに読んでいた。彼女の作品はあまりにも有名で、特徴も魅力も語り尽くされていると思うので、ここでは語らないことにする。というか、私ごときには語れない。

私は特に『コルシア書店の仲間たち』というエッセイが大好きで、世の古書店好きにはぜひ読んでほしい作品だ。1950年代のミラノ、彼女が仲間とともに過ごしたコルシア・デイ・セルヴィ書店での日々が、気品に満ちた文章で綴られる。書店に集まる若者たちの熱気とともに、この時代の書店が持つ、人々の交流の場としての力をひしひしと感じた。



2022.4.15 Fri

カラ兄:中巻 197ページ

有給休暇。素晴らしきかな休日。

読書でイタリア探訪は続く。

少しマニアックかもしれないが、井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』も紹介せずにはいられない作品だ。なんと言ってもボローニャは、私が大学時代に留学していた街なのだ。

ボローニャに留学する際に、事前にボローニャについて知っておきたいと思い、手に取った作品が『ボローニャ紀行』だった。その後イタリア渡航時に持っていった唯一の日本の本でもあり、留学中に日本語の活字に飢えていた私が、何度も何度も読み返した作品でもあった。個人的な思い入れが強すぎて、公平な目線でこの作品を評価することは難しくなっている。

井上ひさしさんといえば、本の蒐集家としてよく知られている。集めた本の重みで床が抜けたというエピソードは、本好きの中では有名だ。本作はそんな井上さんが、イタリアのボローニャに取材旅行した際の記録が、ボローニャの歴史や文化の解説とともに詳細に記された紀行文だ。

正直、この本さえ読めば、ボローニャについてひと通り学んだと言っても差し支えない。私が現地で生活する中で学んだボローニャの歴史や文化が、ほとんど漏れなく書かれていた。人気の観光地もニッチな産業も、地元の共同体の面白い活動も取り上げられていて、渡航前に読んでおいて本当に良かったと思う。

海外に旅行するとき、現地に赴く前にその土地の本を読みたいと思うのは、読書好きの習性なのだろうか。私はその事前の読書のおかげで、海外旅行の経験がより豊かに、深みのあるものになっていると感じる。読書はそれ単体で完結する行為ではなくて、その前後の別の行動にも影響を及ぼしているのだということを、強く感じる瞬間だ。



2022.4.16 Sat

カラ兄:中巻 

イタリアが舞台の小説は数多くある。私が特に好きなのは、ダン・ブラウンの「ラングドンシリーズ」。イタリアだけでなく、フランスやスペインなど、ヨーロッパの歴史ある都市を舞台に、歴史や科学、芸術などが交錯するサスペンス作品だ。

『天使と悪魔』『インフェルノ』『ダ・ヴィンチ・コード』。ヴァチカン、フィレンツェなど、イタリア地域の街並みが、映像として脳内に立ち現れてくる。自分が一度訪れたことのある場所が出てくると、ものすごく興奮する。

カズオ・イシグロさんの『夜想曲集』の中にある短編、「老歌手」も良い。ヴェネツィアが舞台の小説で、ゴンドラに乗って歌と演奏をするシーンに胸を打たれる。夜の運河で、ホテルの窓の向こうにいる女性を見上げながら、歌を歌う舞台設定が完璧すぎて痺れた。

イタリアに関する本をいくつか紹介してきたが、実は私、イタリア人作家の本はほとんど読んだことがない。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』も、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』も、大学時代に挑戦したのだが挫折している。それ以来、イタリア文学は肌に合わないという先入観ができてしまって、なかなか手を出せずにいるのだ。ステファノ・ベンニの『海底バール』とか、好きな小説もあるのだけれど。

この日記を書きながら、これを機会にもう一度挑戦してみようという思いが、沸々とわき上がってきた。世に数多ある本の中で、どの本を選択し読んでいくのかは、読書好きを悩ませる命題の一つだ。私はできる限り、自分らしい選書ができればいいと思っている。

文学賞の受賞作とか、多くの人が賞賛する本は間違いなく面白く、外れがない。でもそういう本だけではなくて、自分の人生に紐付いた「らしい」本を、偶然や運命が運んできたと思えるような本との出会いを、逃したくないと思う。イタリアに関する本は自分にとってまさしくそういう本で、イタリアの方が書いた作品を読みたいというこの欲求を、逃さず叶えていきたい。



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