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#4 太宰治全部読む |自分探しの津軽紀行

私は、太宰治の作品を全部読むことにした。

太宰治を全部読むと、人はどのような感情を抱くのか。身をもって確かめることにした。

前回読んだ『ヴィヨンの妻』では、死へと向かっていく晩年の太宰の、魂を削る哀しい叫びが書き綴られていた。太宰の気分が絶望で塞いでいく一方、文体の完成度は完熟の域へと達していくのが、悲しい皮肉だった。

さて、今回取り上げるのは、太宰が故郷・津軽を旅する紀行小説『津軽』だ。家族と断絶し、長らく故郷を離れていた太宰が、自身の宿命と対峙する様が描かれている。



太宰治|津軽


太宰文学のうちには、旧家に生れた者の暗い宿命がある。古沼のような”家”からどうして脱出するか。さらに自分自身からいかにして逃亡するか。しかしこうした運命を凝視し懐かしく回想するような刹那が、一度彼に訪れた。それは昭和19年、津軽風土記の執筆を依頼され3週間にわたって津軽を旅行したときで、このとき生れた本書は、全作品のなかで特異な位置を占める佳品となった。

あらすじ


太宰は小山書店からの委嘱を受け、故郷・津軽の風土記を書くため、帰郷する。本作『津軽』は、津軽地方の風光明媚な風土や歴史、産業、地域性などの紹介とともに、彼の旅の様子を描いた紀行小説だ。

本作からは、太宰が津軽を厳しく批評しながらも、同時に津軽を愛していることが伝わってくる。また、『晩年』の「思い出」の一節が所々で引用されており、「思い出」の描写の伏線が回収されていくのも楽しい。

私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であった。謂わば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このように津軽の悪口を言うのである。他国の人が、もし私のこのような悪口を聞いて、そうして安易に津軽を見くびったら、私はやっぱり不愉快に思うだろう。なんと言っても、私は津軽を愛しているのだから。

p26より引用


本作で太宰は、旧家に生まれた者の宿命と対峙することになる。

津軽の大地主の家に生まれた太宰は、次第に堕落していく自身と家との乖離、良家出身であるが故の境遇に悩まされる。生まれ持っての運命、血縁からの逃亡、そして自己否定。太宰の文学には、常にその種の苦しみがつきまとう。

長らく家族と距離を置いていた太宰が、一念発起して帰郷し、過去のわだかまりと向き合うのが、本作『津軽』だ。これまで太宰作品を読んできた私にとっては、大注目の作品だった。


飲食に淡白たれ

作中で太宰は、津軽旅行中は「食べ物に淡白であるよう心がける」と、謎の決意をする。

他人からどう見られるかを極端に気にする太宰は、飲食に固執するのは卑しいことだと考え、自分はそうではないことを示そうとする。

しかし、冒頭で掲げられた決意も虚しく、直後に早速破られている。「蟹と酒は別」という謎ルールが後出しされ、お茶目な文章とともに、食べまくる様子が描かれる。

食べ物には淡泊なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にもならないような食べ物ばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到って、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちゃった。

p44より引用

「飲食に淡白たれ」と言っておきながら、『津軽』を読んでいると、むしろ食べ物と酒の話ばかりである。特に酒は常に飲んでいる。


また、印象的なエピソードに、「鯛の切り身に怒り心頭」がある。

道中で鯛を買った太宰は、泊まった旅館で一尾まるごと焼いてもらい、その立派な姿を眺めたいと考えた。3人で泊まったため、気を利かせて鯛を「三つに切らなくていい」と女将に念を押したところ、なんと五つに切られて出てきた。

「確かに三つに切るなと言ったが、だからと言って五つに切るやつがあるか」と、太宰は激怒する。確かに気の利かない女将だが、だからといってそんなに怒らなくても……という感じである。

「飲食に淡白たれ」とはなんだったのか。結局食べ物のことばかり考えている太宰に、苦笑してしまう。

ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、癪にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。

p109より引用


津軽人としての太宰

本作には、都会人と津軽人の対比が描かれている。この旅は、太宰が津軽人としての自分を探し当てる旅でもあった。

本作では、太宰の地元の旧友が大集合する。観瀾山のお花見のシーンでは、友人たちと一緒に、蟹とシャコと酒を飲み食いする様子が描かれる。

その席で太宰は、「自分の作品をを褒めてくれ」とおどける。友人に囲まれ、道化役を演じる太宰。笑顔の裏、ひとりで悩みを抱え込む切なさがそこにはある。

「僕の作品なんか、まったく、ひどいんだからな。何を言ったって、はじまらん。でも、君たちの好きなその作家の十分の一くらいは、僕の仕事をみとめてくれてもいいじゃないか。君たちは、僕の仕事をさっぱりみとめてくれないから、僕だって、あらぬ事を口走りたくなって来るんだ。みとめてくれよ。二十分の一でもいいんだ。みとめろよ」
みんな、ひどく笑った。笑われて、私も、気持ちがたすかった。

p65-66より引用

「笑われて、私も、気持ちがたすかった。」という一文に、太宰の人柄が表れているように思う。


ユーモアと孤独。太宰のこの二面性が、実は津軽人の国民性に由来するのではないかということが語られている。

友人のSさん宅で、太宰はSさんの疾風怒濤の接待を受ける。あまりの心遣いに、かえって引いてしまうほどであった。

もてなしすぎて、相手が閉口してしまう。これが、津軽人の愛情表現なのだと説く。

その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。
(中略)
友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割ったりなどした経験さえ私にはある。
(中略)
到れりつくせりの心づかいをして、そうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になって、かえって後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどという事になるのである。

p72-73より引用

太宰の持つ明るいユーモアと、深い孤独の二面性を、津軽人の饗応の態度に見出している。

彼が人より深い孤独を抱えてしまうのは、相手を満足させたいという、彼の誠実な態度ゆえなのかもしれない。



旧家との決別

太宰は家族、特に長男の兄と打ち解けることができず、久々の再会に気疲れしてしまう。

太宰は兄に、かつての父への畏れを投影している。楽しい紀行文の中で、家族の描写が出てきた途端に、突然死の意識し始めるのが印象的だった。

金木の生家では、気疲れする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない。

p140より引用


そんな中、太宰は『津軽』の最後で、たけとの再会を果たす。たけは幼少期に太宰を育ててくれた女中で、彼にとっては母のような存在だった。

たけの娘たちの学校の運動会。そこで太宰がたけを見つけるシーンは、感動的である。

「修治だ」私は笑って帽子をとった。
「あらあ」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。
(中略)
けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちの事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。

p205-206より引用

もはや言葉は要らず、長年のご無沙汰もなんのその、すっかり安心する太宰。こんなにも平穏を感じている太宰は珍しい。


津軽の旅を経て、太宰は自身の育ちの本質を知る。家族の中で、自分ひとりだけが抱えていた孤独の理由を知る。彼は、旅を通して自分を探し当てたのだ。

旧家に生まれた自己との決別。実の家族よりも親しみを感じる人々の存在に気づき、自身のルーツは、こちら側にあるのだというを実感する。

私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊におけるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。私は、これらの人と友である。

p210-211より引用

長年彼を苦しめてきた家族との関係性に、ひとつの結論をつけることができた。『津軽』の旅は太宰にとって、人生のターニングポイントだったに違いない。



前作『ヴィヨンの妻』と比べると、『津軽』の文章は軽妙かつ自由だ。津軽を周遊する楽しさが、活き活きと伝わってくる。

旅は人柄を映し出す鏡だ。本作を読んでいると、太宰の人柄がよくわかる。サービス精神旺盛だが、不器用で人に流されやすい。旅の選択の随所で、そんな太宰らしさが垣間見える。


まるで太宰に、津軽を案内してもらっているかような読書だった。そこには津軽人特有の、もてなしの精神があった。他者を喜ばせたいと願う太宰のサービス精神が、『津軽』の文章には溢れていた。

しかしながら、太宰と一緒に旅をするのは、骨が折れるだろうな……とも思った。仮に機会が訪れたとしても、私は御免被りたい……。



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