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#3 太宰治全部読む |桜桃は死の色

私は、太宰治の作品を全部読むことにした。

太宰治を全部読むと、人はどのような感情を抱くのか。身をもって確かめることにした。

前回読んだ『斜陽』では、没落貴族の女性の複雑な心情を自身に降ろす、太宰の”憑依力”が際立っていた。そして、太宰作品を読んでいると、私が書く文章もどことなく太宰調になってくるという、影響力の強さを感じた。

さて、今回取り上げるのは、太宰晩年の短編集。1冊目の『晩年』と比較しながら、読んでいきたい。



太宰治|ヴィヨンの妻


太宰治全部読む、3冊目は『ヴィヨンの妻』である。

新生への希望と、戦争を経験しても毫も変らぬ現実への絶望感との間を揺れ動きながら、命がけで新しい倫理を求めようとした晩年の文学的総決算ともいえる代表的短編集。家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、新しい家庭への夢を文学へと完璧に昇華させた表題作、ほか『親友交歓』『トカトントン』『父』『母』『おさん』『家庭の幸福』『桜桃』、いずれも死の予感に彩られた作品である。

あらすじ


『ヴィヨンの妻』は、第二次世界大戦後、太宰が入水自殺を遂げるまでの、3年間の作品を集めた短編集だ。前回読んだ『斜陽』や、最高傑作と言われる『人間失格』が書かれたのもこの頃で、戦争の傷跡の残る中、暗い影の差す作品が多い。

作品は基本的に発表年月順に収録されているが、ユーモアやサービス精神に満ちた『親友交歓』から、死の念に囚われる『桜桃』まで、鬱々とした絶望感が徐々に深まっていく。最後の『桜桃』は、辛くて読み進めるのが困難なほどだった。現実に見切りをつけ、自死を選ぶに到る太宰の執筆当時の心境が、作品にそのまま表れているようだった。


本作では、「父親」としての太宰が如実に表れている。守るべき妻子がいるにもかかわらず、酒に溺れ、女と遊び、少ない金を浪費してしまう。一家の大黒柱であるはずの自分が、家庭を崩壊させていることへの罪悪感に、身を切るようにして短編を書く。

「家庭の幸福は諸悪の根源」と一般的な家庭のエゴイズムを批判しつつも、幸せな家庭を築けないことに罪の意識を感じていた太宰。その罪の重荷を背負う中で、「死」という終末が脳裏にちらついてくる。太宰が抱える苦痛が、紙面から痛いほどに伝わってくる。これが、太宰の文学だ。

ここに収めた短編『父』以下の主なるものがすべて、どこかに罪悪感を宿している点に留意されたい。家庭崩壊という表面の意味だけでなく、むしろ原罪ともいうべき、生得的なものがあって、これは全作品について言える。作家であることを既に罪とした人だと言ってもいい。太宰の宿命であるこの点は『人間失格』などに最も明らかにあらわれていると思う。

p204-205解説より引用



親友交歓

小学校時代の同級生だと言い張る百姓が、太宰宅に厚かましくも上がり込み、暴飲するという話。題の「親友」というのはこの百姓のことを指しており、太宰の皮肉とユーモアが鋭く光る作品だ。

とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんも無かった。

p8より引用

この百姓が、とにかくひどい。太宰秘蔵の貴重なウイスキイをガブガブ飲み、妻にお酌をさせろとしきりにせがむ。あることないこと並べ立て、自身の偉さを誇張し、しまいには物をただでよこせとせがむ。あまりの厚かましさに、逆に感心してしまうほど。


トカトントン

ある作家(おそらく太宰自身)に対して、読者が送った手紙という体裁の作品。何か物事に熱中して取り組もうとすると、「トカトントン」という幻聴が聞こえ、それきり熱意が霧消してしまう悩みが吐露されている。

何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。

p44より引用

敗戦を経験した当時の日本人が抱える、人生への諦念や虚無感を表した「トカトントン」という音。仕事も恋も革命も、一切の大事は戦争という大事件の前に意味を消失してしまう。「トカトントン」という無機質な音が、非常に恐ろしく感じられる作品だ。


ここでいう「父」とは、太宰自身のことである。自らの放蕩癖により妻子に負担と迷惑をかけ、それを改めることもできない駄目親父ぶりを、身を切るようにして書いている。

時に開き直ることもあるが、太宰の根底にあるのは、罪の意識だ。その罪悪感を振り払うために酒を飲み、また放蕩するという悪循環から抜け出せずにいる。

炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。

p71より引用

途中、女性と遊ぶ太宰が米の配給に並ぶ妻子と出くわす場面の、地獄のような気まずさ。表立って太宰を非難しない妻と子に、かえって追い詰められていく。

本作には、太宰の罪の告白が直接的に、驚くほど強い言葉で書き殴られている。自身に対する「死ねばいい」という断罪の叫びに、強迫に、胸が締め付けられた。

私さえいなかったら、すくなくとも私の周囲の者たちが、平安に、落ちつくようになるのではあるまいか。私はことし既に三十九歳になるのであるが、私のこれまでの文筆に依って得た収入の全部は、私ひとりの遊びのために浪費して来たと言っても、敢えて過言ではないのである。
(中略)
死にゃいいんだ。つまらんものを書いて、佳作だの何だのと、軽薄におだてられたいばかりに、身内の者の寿命をちぢめるとは、憎みても余りある極悪人ではないか。死ね!

p70-71より引用


この短編の題に「母」とつけていることに、私は感銘を受けた。本作8編の中で、「母」が一番のお気に入りかもしれない。文学として、最も美しいと感じた。

太宰が宿泊した港町の旅館。隣室から、戦争から帰還した青年と、女中の会話が漏れ聞こえてくる。ひょんなことから、青年の母親の年齢が、女中の年齢と同じであることが判明する。ハッと息を呑む気配。それまで弾んでいた会話が、急速に萎む。

夜を楽しんでいた青年の母親と、自分が同年代であることを知った時の、女中の複雑な心情。「まっすぐ家に帰りなさいね」という母親目線の気遣い。もっと距離を詰めようとしてくる青年に対し、「電気をつけないで!」と鋭く叫んだ女中の一瞬の動揺を、太宰は隣室から逃さずに捉えた。


ヴィヨンの妻

フランソワ・ヴィヨンは、15世紀のフランスの詩人。放蕩三昧な生活を送り、パリを追放された経歴を持つ。

大谷という名前の放蕩人を夫に持つ、女性の視点から描かれた作品。大谷をフランソワ・ヴィヨンに見立て、その妻が「ヴィヨンの妻」というわけである。この駄目人間大谷には、無論、太宰自身が重ねられている。

全体として、この主人公と妻とのかもし出す雰囲気は、世紀末のあわれ深さだと云ってもよかろう。人類の黄昏という言葉を太宰は洩らしたことがあるが、この作品の魅力は、その黄昏のかなしさだ。

p204解説より引用

本作の最後では、「生きてさえいればいい」という、死と対極の「生」への希望が、妻の口から語られる。どんなに堕落していても、周囲に迷惑をかけていても、生きてさえいればそれでいいという、前向きな言葉である。

「黄昏のかなしさ」には終末の印象がつきまとうが、「黄昏時」は、全くの暗闇ではない。わずかでも、明るさが残っている。「ヴィヨンの妻」という作品には、そんなわずかばかりの「生きる希望」が垣間見えるようで、感動した。


おさん

戦争を機に職を失い、やつれ、様子がおかしくなっていく夫を持つ妻。夫は妻を大切に想っていると言い張りながら、余所に女をつくり、日がな出かけては帰ってこない。

作中で描かれているのは「革命」である。妻と不倫相手、どちらを選ぶのか決断できず、そして言い訳めいた大義名分のために心中自殺した夫に、妻は失望する。

革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。
(中略)
気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。

p169より引用

きっと太宰自身も、本作の夫と同じように、真の革命を成し遂げることができなかったのだろう。彼の心中には常に迷いや罪の意識があって、放蕩の道に振り切ることはできなかった。果たして、太宰自身の入水自殺に、大義はあったのだろうか。


家庭の幸福

曰く、家庭の幸福は諸悪の本。

p188より引用

ラジオの街頭録音で、民衆と官僚との討論会を聴いた太宰は、官僚側のヘラヘラとした態度に怒りを覚える。そこから、短編小説の着想を得る。

ひとりの幸福な家庭を持つ官僚の男が、自身は幸せで安泰な暮らしをしながらも、融通の利かないお役所仕事をしたことにより、巡り巡ってある女性を自殺させてしまう。ひとところに家庭の幸福があれば、それはひとところの不幸のうえに成り立っている。

いかなる幸福も不幸という犠牲の上に存在している。つまるところ、家庭の幸福こそが諸悪の根源なのだという、恐ろしい結論に到達する。


桜桃

太宰のやりきれない自責の念、鬱々とした自己嫌悪が、限界まで溜まった末に、溢れ出したような作品。

太宰は、本当にどうしようもない男であり夫であり父親だが、そのことを最もよく理解しているのは、他ならぬ太宰自身だった。自身の怠惰さ、家庭を顧みない冷淡さ、他者に責任転嫁する汚さ。それらに対する言い訳は、すべて言い訳に過ぎないのだと、当人は痛いほどに分かっている。

「父」では、強い言葉で自分は死ぬべきと語られていた。しかし、「桜桃」の静かな文体の方がむしろ、太宰の深い希死念慮が際立つ。淡々と、徹底的に、自身を卑下する言葉を並べる。太宰の深い絶望に対し、成熟し完成された文体の美しさは、哀しい皮肉のようである。

最後の場面、不味そうに桜桃を頬張る太宰には、そのまま自殺しに行ってしまうのではないかと、不安になるような危うさがある。桜桃という色鮮やかな果実を、死と隣り合わせのラストに持ってくるあたりが、太宰文学の芸術性の高さを証明している。



『ヴィヨンの妻』は『晩年』に比べ、深い絶望に打ちひしがれた、鬱々とした作品が多かった。

信頼していた人たちに裏切られ、情けない自分自身に絶望した太宰の、死への意識が表れているためだろう。読者へのサービス精神はなりを潜め、太宰の筆は自分自身の内面へと、どこまでも沈み込んでいく。魂を削るような、哀しい叫び声が書き綴られていた。

太宰の心身が死の淵へと徐々に下降していくのに対し、文体や作品の完成度は、それに相反するように増していく。これが皮肉のようで、なんとも哀しかった。彼の文壇の評価は高く、命さえあればもっと多くの傑作を残せたのではないかと思う。

作家を生業とする自身を「死ね!」と一蹴する太宰だが、彼の生み出す文章は、唯一無二の価値を持つ。その証拠に、彼の作品は後世まで多くの人に読み継がれている。太宰の悲しい最後を知っているだけに、このすれ違いには、なんとも胸が苦しかった。


私は『ヴィヨンの妻』を、会社へと向かう朝の通勤電車で読んでいたのだが、全体に立ちこめる重苦しい空気や、漂う死の気配に毒され、すっかり気分が沈んでしまった。その日は一日、なんだか調子が出なかった。

太宰作品は、読むタイミングに気を付ける必要がある。読むタイミングを間違えると、現実世界に良くない影響を及ぼしかねない。読む時の体調やコンディションとも、よくよく相談する必要がある。

それほどまでに、太宰治の作品には、強い影響力が宿っているのだ。太宰自身の魂が宿っている。間違っても、大事なプレゼンの直前に、「桜桃」を読んではいけない。十分に注意すべし。



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