#2 太宰治全部読む |魂が、文体が憑依する
私は、太宰治の作品を全部読むことにした。
太宰治を全部読むと、人はどのような感情を抱くのか。身をもって確かめることにした。
1冊目の『晩年』から、太宰の才能をまざまざと見せつけられた。「思い出」などの短編からは、太宰という人間が形成される根源を、太宰文学の萌芽を、垣間見ることができた。
さて、今回は長編作品である。前回とはまた違う太宰が見られるだろうか。
太宰治|斜陽
太宰治全部読む、2冊目は『斜陽』である。
第二次世界大戦後の激動の時期、没落していく上流階級を描いた本作。当時の世相を的確に表現した本作は、「斜陽族」という流行語を生むほど人々に大きな影響を与え、ベストセラーとなった。
斜陽とは、西に沈みゆく太陽のこと。転じて、新興勢力の台頭により、没落していく存在を指す言葉だ。本作の登場人物たちを、簡潔かつ美しく表現する言葉として、これほどふさわしい題はないだろう。
巻末の柄谷行人さんの「『斜陽』について」という解説の中に、斜陽という言葉について素敵な文章があったので、引用する。
主人公は元貴族の女性・かず子。物語は彼女の一人称視点で語られていく。
「最後の貴婦人」である母親への敬愛、没落していく自身の境遇への苦悩、そして「恋」という革命に対する盲目的邁進。太宰に上流階級の女性の魂が憑依したとしか思えない、物凄い表現力で書き綴られていく。
この辺りは、太宰自身の出自が関係しているのかもしれない。津軽の大地主の家系に生まれ、実際に第二次世界大戦を経験した彼の境遇が、物語の中に反映されているのだろう。
かず子の、没落する貴族として生まれた苦しみ。それに付随する、複雑な生死感。そして次第に、「恋」という革命に身を投じていく心の動き。この辺りは本当にすごい。
かず子の生死感には、太宰のそれが、色濃く映り込んでいるだろう。生きる権利と、死ぬ権利。生きることのやるせなさと、死ぬことの美しさ。そして、それでも生きていかなければならない人間の性。生きる苦しみから解放される手段として、死がある。
胸を打つのは、中盤に挿し込まれる、かず子から上原に向けた4通の恋文だ。彼女の「恋」という革命にかける思いが空回りし、一方通行になり、上原の心には届かない。
彼女は果たして、本当に上原という男を愛していたのか。一度口づけを交わしただけの相手に、これほど心を奪われるものか。彼女はただ、沈みゆく自身の境遇から脱却するために、恋という強い刺激が、人生の拠り所が、必要だっただけなのではないか。
そしてもうひとつ、弟の直治の自死が、読者の前に立ち現れてくる。彼が残した遺書は、放蕩の限りを尽くしていた彼の、貴族として生まれた苦悩、隠された内面が全て吐露されている。かず子と直治の命運を分けたものは、一体なんだったのか。
貴族としての生活を捨てきれるか否か。それが彼らの命運を分けたのではないか。
かず子は、多少歪であっても、恋という革命に新たな道を見出した。直治は新たな道を見つけられず、貴族としての自己を捨て去ることができなかった。彼の遺書は、こう結ばれている。
本作を読み終えて、太宰の登場人物への憑依力に驚いた。没落貴族の女性の心の動きを、これほど迫り来る文章で描くことができるなんて、やはり太宰は只者ではない。
太宰は『斜陽』を執筆するにあたって、上流階級の女性に取材をしたりしたのだろうか……あまり太宰にそういったイメージはないが、そうでないと、ここまでリアリティのある女性像は描くことは難しいだろう。
そして、太宰が書いた文章が、今度は私たち読者に憑依する。太宰が自身を投影して書いた小説に、読者は共感し、そこに自分自身の姿を見出すのだ。人間みな太宰という極論に到達する。
終いには、自分が書く文章が、心なしか太宰っぽさを帯びてくる。noteの読書日記を書いているとき、ふとした瞬間に、「この文章、太宰っぽくない?」という言い回しを用いてしまう。
そしてまた、その文章を読んだ誰かに太宰が憑依して——太宰が伝播する。太宰を読み続けると、文体に影響が生じ、この世界に太宰を増やす感染源となってしまうのかもしれない。
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