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#2 太宰治全部読む |魂が、文体が憑依する

私は、太宰治の作品を全部読むことにした。

太宰治を全部読むと、人はどのような感情を抱くのか。身をもって確かめることにした。

1冊目の『晩年』から、太宰の才能をまざまざと見せつけられた。「思い出」などの短編からは、太宰という人間が形成される根源を、太宰文学の萌芽を、垣間見ることができた。

さて、今回は長編作品である。前回とはまた違う太宰が見られるだろうか。


太宰治|斜陽


太宰治全部読む、2冊目は『斜陽』である。

最後の貴婦人である母、破滅への衝動を持ちながらも"恋と革命のため"生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲愴な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描く。昭和22年に発表され、"斜陽族"という言葉を生んだ太宰文学の名作。

あらすじ


第二次世界大戦後の激動の時期、没落していく上流階級を描いた本作。当時の世相を的確に表現した本作は、「斜陽族」という流行語を生むほど人々に大きな影響を与え、ベストセラーとなった。

斜陽とは、西に沈みゆく太陽のこと。転じて、新興勢力の台頭により、没落していく存在を指す言葉だ。本作の登場人物たちを、簡潔かつ美しく表現する言葉として、これほどふさわしい題はないだろう。

巻末の柄谷行人さんの「『斜陽』について」という解説の中に、斜陽という言葉について素敵な文章があったので、引用する。

斜陽は明るい。真昼の太陽とちがって、そこには陰影がありあるいは陰影の気配があって、それが一層明るさをきわ立たせる。『斜陽』という作品が感じさせるのは、そういう微妙な一瞬の感覚であって、私はそれが太宰の定着したかったものだと考えている。

p232より引用


主人公は元貴族の女性・かず子。物語は彼女の一人称視点で語られていく。

「最後の貴婦人」である母親への敬愛、没落していく自身の境遇への苦悩、そして「恋」という革命に対する盲目的邁進。太宰に上流階級の女性の魂が憑依したとしか思えない、物凄い表現力で書き綴られていく。

この辺りは、太宰自身の出自が関係しているのかもしれない。津軽の大地主の家系に生まれ、実際に第二次世界大戦を経験した彼の境遇が、物語の中に反映されているのだろう。


かず子の、没落する貴族として生まれた苦しみ。それに付随する、複雑な生死感。そして次第に、「恋」という革命に身を投じていく心の動き。この辺りは本当にすごい。

いまはもう、宮様も華族もあったものではないけれども、しかし、どうせほろびるものなら、思い切って華麗に滅びたい。

p45より引用

恋も革命も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。

p136より引用

かず子の生死感には、太宰のそれが、色濃く映り込んでいるだろう。生きる権利と、死ぬ権利。生きることのやるせなさと、死ぬことの美しさ。そして、それでも生きていかなければならない人間の性。生きる苦しみから解放される手段として、死がある。

死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。(中略)
けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。

p148-149より引用


胸を打つのは、中盤に挿し込まれる、かず子から上原に向けた4通の恋文だ。彼女の「恋」という革命にかける思いが空回りし、一方通行になり、上原の心には届かない。

彼女は果たして、本当に上原という男を愛していたのか。一度口づけを交わしただけの相手に、これほど心を奪われるものか。彼女はただ、沈みゆく自身の境遇から脱却するために、恋という強い刺激が、人生の拠り所が、必要だっただけなのではないか。


そしてもうひとつ、弟の直治の自死が、読者の前に立ち現れてくる。彼が残した遺書は、放蕩の限りを尽くしていた彼の、貴族として生まれた苦悩、隠された内面が全て吐露されている。かず子と直治の命運を分けたものは、一体なんだったのか。

いったい、僕たちに罪があるのでしょうか。貴族に生れたのは、僕たちの罪でしょうか。ただ、その家に生れただけに、僕たちは、永遠に、たとえばユダの身内の者みたいに、恐縮し、謝罪し、はにかんで生きていかなければならない。

p186-187より引用

貴族としての生活を捨てきれるか否か。それが彼らの命運を分けたのではないか。

かず子は、多少歪であっても、恋という革命に新たな道を見出した。直治は新たな道を見つけられず、貴族としての自己を捨て去ることができなかった。彼の遺書は、こう結ばれている。

もういちど、さようなら。姉さん。僕は、貴族です。

p199より引用



本作を読み終えて、太宰の登場人物への憑依力に驚いた。没落貴族の女性の心の動きを、これほど迫り来る文章で描くことができるなんて、やはり太宰は只者ではない。

太宰は『斜陽』を執筆するにあたって、上流階級の女性に取材をしたりしたのだろうか……あまり太宰にそういったイメージはないが、そうでないと、ここまでリアリティのある女性像は描くことは難しいだろう。

そして、太宰が書いた文章が、今度は私たち読者に憑依する。太宰が自身を投影して書いた小説に、読者は共感し、そこに自分自身の姿を見出すのだ。人間みな太宰という極論に到達する。

ユーモアは太宰文学の大きな特徴になっている。(太宰治の文学は、どんな小説でも君よ、あなたよ、読者よと直接作者が呼びかけてくる潜在的二人称の文体で書かれている。この文体に接すると読者は、まるで自分ひとりに話しかけられているような心の秘密を打明けられているような気持になり、太宰に特別の親近感をおぼえる。そして太宰治は自分と同じだ、自分だけが太宰の真の理解者だという同志感を持つ。)

p220より引用

終いには、自分が書く文章が、心なしか太宰っぽさを帯びてくる。noteの読書日記を書いているとき、ふとした瞬間に、「この文章、太宰っぽくない?」という言い回しを用いてしまう。

そしてまた、その文章を読んだ誰かに太宰が憑依して——太宰が伝播する。太宰を読み続けると、文体に影響が生じ、この世界に太宰を増やす感染源となってしまうのかもしれない。



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