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今日も、読書。 |8日目に残された蝉は、幸福なのか、それとも不幸なのか——

2022.6.5-6.11



角田光代|八日目の蝉


『八日目の蝉』といえば、読書界隈ではもちろんのこと、それ以外の人でも、一度は題名を聞いたことがあるくらい、有名な作品だ。井上真央さん、永作博美さんが主演で映画化もされており、そちらでご存知の方も多いだろう。

先日、そんな『八日目の蝉』を、満を持して読んだ。我が家の積読になってから長い年月が経過しており、そろそろ発酵し始めるのではないか、という頃合だった。

著者は、角田光代さん。2005年に、直木賞を受賞されている。お名前は存じ上げていたものの、恥ずかしながら、角田さんの作品を読むのは今回が初めてだった。

逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか……。東京から名古屋へ、女たちにかくまわれながら、小豆島へ。偽りの母子の先が見えない逃亡生活、そしてその後のふたりに光はきざすのか。心ゆさぶるラストまで息もつがせぬ傑作長編。第二回中央公論文芸賞受賞作。

あらすじ

本作が取り扱っているのは、「誘拐」という重たいテーマだ。そして、赤子を誘拐して逃亡生活を続ける希和子を取り巻くのは、宗教団体や水商売、不倫、堕胎など、いずれも暗い要素ばかり。

フィクショナルな明るい展開は訪れず、希和子は常に、犯罪者である自身の境遇と戦う。前半はそんな希和子の苦悩と、偽りの母という立場でもどうしようもなく芽生えてくる、母親としての愛情が描かれている。

希和子は、主人公だけれど間違いなく犯罪者であり、作中でもそこの線引きはしっかりとされている。しかし不思議なことに、気付けば彼女を応援している自分がいることに驚く。赤子・薫の実の両親が、どちらもどうしようもない人物であることが、原因かもしれない。それでも、希和子と薫のふたりの平穏な未来を、心から望んでいる自分に気付き、本当の家族とは血の繋がりだけなのだろうか……と考えてしまう。

正しい家族のあり方とは、何か。そもそも、そんなものが存在するのか。

生みの親ではない、ましてや誘拐犯の母親に育てられた娘の過去は、間違ったものとして、記憶から抹消されなければならないのか。後半は、大学生になった薫の視点に切り替わり、幼き日の希和子との日々が回顧される。そこにあった愛は、偽物ではなく本物だったのではないか—―導かれるように小豆島に向かう薫は、その先で何を見つけるのか。

第1章が母・希和子、第2章が成長した娘・薫の視点で描かれており、この構成が堪らなく良い。そして、第1章と第2章の繋ぎ目の、あの出来事を描く際の、靄に包まれたような書き方がすごく上手い。小豆島のフェリー乗り場で、希和子が薫に向けて叫んだ言葉が、後々の薫の心にどう響くのか……というところに胸が打たれる。

個人的には、薫が希和子に育てられた幼年期をどのように受け止めるのか、というところが、本作の見所なのではないかと思う。

蝉は、地上に出てから、たったの7日で死んでしまう。「八日目の蝉」という題名にもあるように、作中で薫は、誘拐犯に育てられた自分を、7日目に死ぬことができず、8日目に一匹だけ取り残されてしまった蝉の境遇と重ね合わせる。

果たして8日目に残された蝉は、幸福なのか、それとも不幸なのか——読む人によって、その解釈は全く異なるだろう。



燃え殻|ボクたちはみんな大人になれなかった

インパクトのあるペンネームの著者が描く、SNS時代を象徴するような、新しい恋愛小説。WEB小説「cakes」での連載が話題を呼び、書籍化、ベストセラーとなった、そのあたりの経緯も含めて「今風」の作品。『ボクたちはみんな大人になれなかった』を、ご紹介する。

糸井重里、大根仁、小沢一敬、堀江貴文、会田誠、樋口毅宏、二村ヒトシ、悶絶! ある朝の満員電車。昔フラれた大好きだった彼女に、間違えてフェイスブックの「友達申請」を送ってしまったボク。43歳独身の、混沌とした1日が始まった—―。“オトナ泣き”続出、連載中からアクセス殺到の異色ラブストーリー、待望の書籍化。

あらすじ

比較的短い小説で、スマホの画面をスクロールするように、スラスラと読みやすい。章名が、どれもキャッチ―で印象的。スマホの画面をタップするように、次々と場面が切り替わるところも、新しさを感じさせた。

昔付き合っていて、既に別の人と結婚し家庭を持つ女性に、誤ってFacebookで友達申請をしてしまうところから、物語は始まる。いかにも現代風な始まり方だが、なんとなく文学性を感じたりもする。たった一度のミスタッチで生じる気まずさへの共感もあり、すごく惹きつけられる導入だった。

43歳で独身の主人公は、その女性との出会いから、仕事に打ち込んだ若き日々、バーで出会った美女との一抹の交わり——そんな人生のワンシーンを、次々に繋いでいく。記憶の断片を繋ぎ合わせていく作業の中で、もう二度と手にすることのできない、過去の日々を想う。そんなやりきれなさや切なさが、涙を誘う。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』という題名には、どんな意味が込められているのだろうか。本作に登場する人物は、主人公も含めて、みんなどこか「一人前」の大人になりきれない、欠陥を抱えた人ばかりだ。「大人になりきれない」とは、過去や理想への執着を捨てきれず、過ぎ行く時間の中で現在にしがみついている状態を表しているのではないか、と感じた。

一方で、本作を読んでいると、「大人」なんて枠組みはそもそも存在しないのではないか、とも感じる。「子供」と「大人」の境界は、ものすごく曖昧で、どこからが大人だ、という明確な境界はない。人は誰しも、大人の部分と子供の部分を、それぞれあわせ持って生きている。そう考えると、『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、今を生きるすべての人たちの物語で、だからこそWEB小説を通じて、多くの人の心に刺さったのだろう。

この小説からは、「大人になれなかった」ことに対する悲観のようなものが、そこまで感じられなかった。人生の最も輝いていた時期を、眩しく回想することができるのは、きっと幸せなことだ。

そこに伴われる後悔や、苦い感情も含めて、それはきっと幸福だ。意図せずFacebookで繋がってしまった、主人公とかつて愛した女性との、ほんの少し先の未来を思うと、子供のままでいるというのも、悪くないなと感じた。



病名:本棚に目がいってしまう病


人の家の本棚が好きなのです。

たとえば友人の家に遊びに行くと、必ずお願いして、本棚を見せてもらう。当然ながら、人によって本棚の様子は全く違う。大きくて重厚な本棚に、ハードカバーがみっちり詰まっているところもあれば、カラーボックスに漫画本が並んでいるところ、そもそも本棚を置いていないところもある。

人によって本棚の様子が異なるのは当たり前で、私はその違いを感じるのが、すごく好きだ。そして本棚から、「その人らしさ」を感じ取るのが、すごく好きだ。

大学時代の親友は、大学から徒歩20秒という、たまり場になる運命を定められた物件に住んでいた。初めてその家に遊びに行ったとき、カラーボックスを2段重ねた本棚があって、そこに新潮文庫の吉本ばななさんの本が、すべて並んでいた。私はその光景を見て、何の根拠もなく、こいつとは一生付き合っていくことになるだろう、と感じた。吉本ばななさん、恒川光太郎さん、三木卓さん……彼に教わった作家さんは数知れない。

高校時代、私はクラスでも地味なグループに属していたのだが、どういう巡り合わせか(?)、サッカー部のイケメン優男と仲良くなった。彼の家に遊びに行ったとき、机に太宰治や芥川龍之介の文庫本が並んでいて、さもありなんと腑に落ちたのを覚えている。読書が、両者の意識の深層部分で、私たちをつなぎ合わせてくれていたのだと。

雑誌やテレビなどでも、本棚が映っていると気になってしまう。そこにどんな本が置かれているのか、家にも同じ本が並んでいるか、チェックしてしまう。

本を全然読まない友人にこの話をしたら、それは病気だと冗談交じりに言われた。そうかもしれない。病名:本棚に目がいってしまう病。基本的に自他ともに害はないが、時折本棚をじろじろ見るなと怒られることもある。

中身のない話をしてしまったが、読書好きの方の中には、きっと同じような習慣がある人もいるはず……と信じている。



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