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倫理学の創始者 アリストテレス

今回のテーマは古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスです。
このアリストテレスという人は、とんでもない人で、「哲学の祖」と言われているソクラテスの孫弟子にあたり、「哲学界の巨人」と言われているプラントの弟子でもあります。さらに、ヨーロッパ以外の地域も制服したアレキサンダー大王の家庭教師もつとめたという歴史上の偉人です。
アリストテレス自身も「万学の祖」と言われ、現在にもつながるさまざまな学問の礎を築いたとされています。

アリストテレスについての以下の文章は、(『アリストテレスの哲学』 中畑正志著 岩波書店 2023 の2章)を参考に書いています。これはAmazonのオーディブルにも収録されていますので、是非お聞きください。アリストテレスについて、コンパクトながら読みやすくまとめられている一冊です。

アリストテレスは倫理学の創始者だと言われています。それは、「倫理」や「倫理学」と訳される欧米諸語がアリストテレスに由来するからです。彼は、これらの語源である「エーティケー」というギリシア語の形容詞を、「自然学的」や「論理学的」という言葉と対比される探究の領域や命題の種類を表現するために使用しました。
また、「道徳」と訳される「モラル」もアリストテレスの著作に初出の「エーティコス」をラテン語に訳すためにキケロがつくった「モラリス」に由来します。
つまり、倫理も道徳も、アリストテレスという人から生まれた言葉だったのです。

アリストテレスが創始した「倫理学」の著作としては、『ニコマコス倫理学』、『エウデモス倫理学』、『大道徳学』の三つの書が現在に伝わっていますが、政治や社会との関係を含むより広い視野からの議論を展開しているのが、『ニコマコス倫理学』ですので、この著作を『倫理学』と呼んで話を進めます。

アリストテレスは「中庸の徳」という言葉でも知られています。その師プラトンが「イデア」などの「理想像」を思い描いた哲学者なのに対して、アリストテレスは実践的な哲学者でした。それは、アリストテレスの以下の言葉からも明らかでしょう。

この研究の目的は、認識ではなくて、行為である

『倫理学』第一巻 第三章

この言葉こそが、まさにアリストテレスの「倫理」への姿勢が表れています。実践を重視するアリストテレスは、人々の行為の変容を求めたのです。

では、どのような行為をアリストテレスは強調したのかというと、それは「徳ある行為」であり、「徳ある行為」とは「徳のある人の行う行為」であると言うのです。これだけだと、政治家が「必要なときには適切な政策を直ちに実行する」というのと同様、情報量がなく、ほとんど何も語っていないようにも聞こえますが、アリストテレスが言いたいことは、「行為」を「人のあり方」にもとづいて考えているということです。

これは「人助け」は素晴らしいという「行為」の話では無いということです。
例えば、教室で子どもが困っているときに、「助ける」だけが正解ではありません。そこには、その状況に合わせて「見守る」という選択肢も当然あるだろうし、「周りの子に助けをうながす」など、ここには挙げきれないような、いくつかの選択肢から教師が選択することになります。「助ける」一辺倒では、子どもたちは「教師の助けを待つだけになる」という言説は、教育現場でもよくありますよね。

つまり「倫理」というのは、「普遍的な正解がある」のではなく「状況文脈によって正解が異なる」ということになり、それを「選択するための資質」をアリストテレスは「徳(アレテー)」と表現したのです。だから、倫理は教えることが困難であるからこそ、それぞれの人の「徳」を高めていくというアリストテレスの考えが出てくるわけです。

じっさい、すぐれた人がそれぞれの物事をただしく判定するのであり、またそれぞれの状況において真なることがすぐれた人に現れるのである。すなわち、それぞれの性向に応じて、それに固有の美しさや快さがあるが、すぐれた人というのは、それぞれの状況で真実を見るという点で、おそらく最も抜きんでた存在であり、そのような人は、美しいものや快いものの、いわば基準であり尺度である。

『倫理学』 第三巻 第四章

学校での道徳教育というのは、その教育活動全般にわたって行われる。休み時間のトラブルに関する指導や、児童の困りごとなどの相談は、具体的状況が基にあるので、その指導内容も「実践的」である。
一方、「特別の教科 道徳」で行われるような「道徳の授業」というのは、抽象的な場面が設定されており、そこから導かれる「模範的な行為」というのは、「理想的な行為」ではあるが、必ずしも実践できるわけではない、という点からみれば、それは空虚な「キレイゴト」と感じてしまう教師や子どもの感情も無視できない。

これについて、中畑正志氏は以下のように述べている。

アリストテレスはそのことを、感情が十分に陶冶されていない者は、まだ彼の「倫理学」の講義を聴くにはふさわしくない、といった逆説めいた言い方でも表明している。「倫理教育」というものがあるなら、まず必要なのは、実践による習慣づけを通じて欲求や感情を養うことである。この見方からすれば、「道徳教育」なるものを学校の授業で他の教科と並ぶかたちで教えようという最近の教育政策は、「私たちの道徳」(生徒全員に配られる皮肉な教材の名前)というように、道徳をパーソナルなかたちで身につけるためには(幸いなことに?)役立たずということになる。

『アリストテレスの哲学』 中畑正志著 岩波書店 2023 p51

僕の立場としては、道徳の授業が「役立たず」とまでは思っていない。その論拠としての「倫理学は文学が担う」という論考は別の機会で公開したい。ただ、子どもたちの発達にも差があることを捉えるならば、学校教育における道徳教育に帯びている「普遍的な指導」というのを見直し、「個別具体的な事象」を大事にするという視点は、学校教育に倫理を取り戻すためにも必要なのではないだろうか。