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「即興授業」のすすめ

実は私は大学生のときにストリートダンスをしていた経験がある。ジャンルはロックである。といっても、ロックンロールの「ROCK」ではなくて、鍵をかける「Lock」の方だ。ダンスの特徴的な動きの中に「鍵をガチャ」と閉めるような、「カチっ」という動きがあるからLockという名前になったらしい。

もう少しストリートダンスの話をさせてもらう。
ダンスには2種類の踊り方がある。
一つは「振り付け」が決まっているダンスである。複数人で踊るときには「振り」がある。だから、動きが揃う。
もう一つは「即興」で踊るダンスである。これは主に一人で踊るときのもので、流れてきた音楽に合わせて踊る。考えていては間に合わない。頭で踊っていたら、音楽にノレないので、「身体で踊る」と表現されることもある。

私自身は後者の「即興」ダンスが好きであった。即興ダンスを披露しあって、どちらがより「ノレていた」かを競う「ダンスバトル」というものがあり、好んで出場していた。
振り付けがあるダンスも嫌いではない。6人組のチームを組んでコンテストなどにも出場していたこともある。しかし、こちらには「自由度」が少ない。いや、むしろ「決められたことを間違えずに踊る」ことこそが求められる。それでも、出来上がった振り付けはまさに「作品」であり人を感動させる。チームで踊る達成感もある。

ここからは授業の話になるが、学校の授業をダンスに例えるならば、それは「振り付け」の決まったダンスであろう。指導案という言葉がある通り、授業というのは計画に沿って、効果的な指導法を、効果的なタイミングで行っていくことが求められている。児童への指示は的確にして、無駄を省き、効率的に学習を進めていくことが良いことである、という価値観は現場に確かに存在する。

教育技術という言葉がある。確かに「教える」というのはある種の技法であり、そこには巧拙が存在することを否定はしない。向山洋一氏が提唱し一世を風靡した「教育技術法則化運動」というのは、それを科学的に考えて「再現性」を高めようとした取り組みである。
これには様々な批判があるのも事実ではあるが、実際、向山氏自身の「跳び箱を跳ばせる指導法」は、再現性が高い実践として有名である(私自身も指導で活用したことがあり、その効果を体感済みである)。

しかし、あまりにもこの考え方が現場を支配しだすと、そこにはやはり弊害が生まれる。

まず、現実的な問題として、小学校教員は1日に様々な教科を5時間以上教えている。例えば、私のある日の一日は、
1時間目 国語
2時間目 算数
3時間目 生活
4時間目 音楽
5時間目 図工 である。

各教科の指導案を毎時間考えていたら、それこそオーバーワークとなる。指導案とまではいかなくても、指導計画や板書計画くらいは考えることができるかもしれないが、それでも十分に残業確定である。
というのも、教師が授業準備に取り掛かれる時間は、終業時間を過ぎてからのことも多い。私の勤める自治体の勤務時間は8時半から17時であるが、子どもは「勤務時間前」の8時から学校にいるし、子どもは16時半までは学校に残ることができる。放課後に運動場で怪我でもしたら、対応するのは先生である。さらに、会議や研修や保護者対応もあるので、授業準備を落ち着いてできるのは17時以降になる(ちなみに、驚くべきことに、休憩時間という概念は小学校の現場には皆無である。)。

次に、上記のような働き方なので、しっかりと授業計画を考えることができない教員は「教科書会社」が発行する「指導書」に頼るようになる。これは「児童用教科書」とは違い、その行間に「指導のポイント」が赤字で記入されている教科書である(一冊5000円くらい)。もちろん、より詳しく教材について知りたい人のために「研究編」という書籍もあるが(一冊数万円)、これを読み込む時間は現場には皆無である。

だから、こう言ってしまっては悲しいが、現場の授業の多くは「教科書会社」が考えた「授業計画」に沿って行われていると言っても過言ではない。もちろん、これが一概に悪いとは言えない。先述の通り、授業には効率性が求めれていて、その面で言えば、教科書会社には一日の長があると言える。各教科の専門家が執筆している指導書には、各教科における「効率的な授業法」が記載されている。それは各地で研究された指導法の結晶であり、それを模倣すること自体は、教育技術を高めるという点でも効果があるだろう。

しかし、これを繰り返してきた教員の「授業観」はどのようになるのだろうか。私はそこに一抹の不安を覚えてしまうのだ。

というのも、指導書の指導計画が「授業の正解」であるのならば、それをそのまま模倣することこそが「正解」になってしまうのではないだろうか。各教科の専門家が執筆した指導計画の質を、現場の一教員が超えることなど望むべくもない。ましてや先述の通り、小学校教員は数多くの教科を教えている。そしてそのことが逆に小学校教員から「専門性」を奪っている面も否定できない。つまり、いろいろな教科は教えることができるが、特定の教科の専門性は育ちにくい構造なのだ。

すると、もう教員は「自分で授業を考えなくなる」のではないか。そもそも腰を据えて各教科の教材を研究するゆとりさえない。そして「授業の正解」は目の前の指導書にあるではないか。

こうして、授業は教科書会社が考えた「振り付け」に支配されていき、教師は何も考えずに決められた「振り付け」を踊るだけのダンサーとなってしまった。もちろん、その振り付けは、ダンスの専門家が考えた「優れた振り付け」である。素人が考える振り付けよりは「説得力」だって「エビデンス」だってあるのだろう。「教師ガチャ」なんて言葉が出てくるくらいである。学校教育への信頼がこれほど地に落ちた状況であれば、むしろ「優れた振り付け」を踊ってさえくれた方が、社会も安心するかもしれない。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。
ダンサーとしての私は、やはり、そこに「否」を突きつけたい。

授業というのは、ナマモノである。
「優れた振り付け」は決して万能ではない。むしろ、振り付けを正しく踊るために意識していることが、「目の前の大切な何か」を見失わせてしまうこともないだろうか。

我々の目の前に子どもたちがいる。
子どもたちは「優れた振り付け」を見にきたわけではないのだ。子どもたちは、教師による「ダンスの発表会」の観客などではない。むしろ、ダンスを共に踊るパートナーであろう。

パートナーの動きを無視して、教師が「振り付け」ばかりを考えていたら、パートナーは呆れるだろう。「もっと、私たちを見て!」と。

さあ、困ったことになった。
我々には指導計画を立てる時間は用意されていない。けれども、ダンスのパートナーたちは毎日、他ならぬ私と踊ることを求めている。しかし、振り付けを考える時間はない。むむむ。

そうだ。もう、これしかない。
身体で踊るのだ。感じたままに踊るのだ。
大丈夫。これを読んでいるあなたは、すでにたくさんの教育技術を身につけている。教師の多くは、本当に勉強熱心である。休憩時間という言葉を知らないまま、ずっと働くことができる真面目な働きアリたちである。

あなたに足りないのは、「勇気」だけである。
大丈夫。
少しくらいステップを間違えてもいい。あなたには信頼できるパートナーがいる。

彼女たちの言葉を素直に聞けば、踏むべきステップは見えてくる。
大丈夫。
だって、教室は間違うところなんだから。
これは、子ども向けの言葉ではない。教師を励ますための言葉である。

最後は自己啓発的になってしまったけど、こればかりはしょうがない。
まずは踏み出してもらわないといけない。即興授業の核心については、過去に教育書を執筆しているので、興味があれば、そちらもどうぞ!

ご清聴、ありがとうございました。
パチパチ