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「ていねいな暮らし」 「セレクトショップ」 「夢を持とう!」・・・ そういうものに疲れてしまったすべての人へ。 2020/07/11

 朝からランニングして45分くらいでリタイアしてしまった。暑い。リタイアとは具体的にどういうことかというともうこれ以上走れんわ、となることで、そのまま歩いて帰ってくることもあれば、リタイア地点の最寄駅から電車に乗って帰ってくることもある。電車に乗って帰るときは、ランニング姿で汗だくなわけなので、なんというか、浮いている。すいません、こんな汗まみれで、でももう歩いて帰るのも時間かかるし、という感じでなるべく存在感を消して乗り込むのだ。まぁ、しょせん2駅くらいの話なのだけど、毎回反省している。

 というわけで、人生日々反省なのだけど、『ホホホ座の反省文』を読んだ。ホホホ座は行ったこと無いし、あまりよく知らないのだけど帯に惹かれたのだ。

「ていねいな暮らし」
「セレクトショップ」
「夢を持とう!」・・・
そういうものに疲れてしまったすべての人へ。
『ホホホ座の反省文』帯

 もうほんと「ていねいな暮らし」w みたいな気分あるよねっていう。個人的には「夢」とかもねぇ、「夢」とか言ってる人ほどその「夢」とやらに向かって何もしないからなぁ、とか。あと少なくとも、他人に夢を持とうなんて言われたかなくて、大きなお世話だよ、という気持ちもあるので、こんなことを帯に書いているのが面白いなと思って買ったことを思い出す。

 若い頃、バブルを経験した世代が編集権を持つポジションにつき始めた二〇〇〇年を過ぎたあたりから、<清潔と特別>を前面に押し出した雰囲気の店や人が流通の主軸になりつつありました。それは一般的には、「センスがいい」と認識されていきます。「センスがいい」の基準は今、ほぼそれだけになってしまった気がしています。「センスがいい」を体現している店員も客もいわば皆、ほろ酔い状態でその空間にいます。でも、たぶんそういうことなんだと思います。雰囲気に酔うことが、まずはセレクトショップの入口なのですから。その空間に入ったら、世界観を壊すような言動はご法度です。マナーです。かっちりした世界を作っている空間であればあるほど、その言動の許容範囲は狭いです。
 しらふではなかなかできません。そこに客観的な突っ込みはいらないのです。言い換えれば、自分たちを笑いとばすようなユーモアの視点がそこにはありません。全員がボケを担当しているのです。
山下賢二・松本伸哉『ホホホ座の反省文』P.12

 ブランディングとか、世界観とか、真面目にやればやるほどちょっと滑稽に思えてくる側面が出てくるのは必然だと思っているというか、真面目には常に滑稽が伴うのが世の常、というかだからこそ、ふと俯瞰して自分たちのことを見たときに、ときにはツッコミを入れたくなるユーモアの視点ってのが生まれてくるし、そういうの大切だと思うんだけど、仕事だと、ボケ倒すこともときには必要だったりするわけで、自分としてもなんか真面目なこと言いながら、自分に対してお前、仕事以外ではそんなこと微塵も思ってないだろというツッコミを入れながらこなすこともある。そもそも自分自身が生産性のかけらもないこんなnoteを書きながら、業務では生産性を気にしたりするのだから、とかくこの世は面白い。

 暮らしからはみ出るネガティブな事情に蓋をせず、理想の暮らしの足元には〈生活という継続していく日々〉があることを紹介したい。それによって読者の共感と安心も得られるかもしれない。理想郷ではなく、日常と地続きの話。
山下賢二・松本伸哉『ホホホ座の反省文』P.26

 まぁ雑誌には理想という非日常への憧れを喚起させて商売にしている側面があるので、そのようなものが軽薄で地に足の着いていない滑稽なものとして映る側面があるのもこれまた必然というか、避けられないものなのかもしれない。と、同時に世の中がちょっとそういう誰かによって作られた理想に感化されすぎでキモいと感じるときもある。

 だいたい「ていねいな暮らし」って暇か、暮らしてないか、どっちかだろと思うわけで、日常って全然綺麗じゃなくて、泥臭くて、慌ただしいもんだと思っていて、少なくとも自分の日常なんてそんなもんで、洗濯物は干したくないし、畳みたくない、美味しいものは食べたいけれど、毎日そんな丁寧に料理する暇なんてないし、そう言えば駅にあったとんかつ和幸のカツ丼弁当、UberEATSで頼んだどこのカツ丼よりもうまかったんだけど、夕飯作るのめんどくさい時は駅ビルのとんかつ和幸でカツ丼弁当買って帰ろうぜ、マジでうまいぜ、は日常なんだけどこれだとやっぱりコンテンツにはならないんだよなぁ、とか、そういうことをつらつら考えながら、読んでいた。

 そもそもていねいな暮らしでもなんでもいいのだけど、何かを頑張ってやっている時点で日常にはならない気がしていて、頑張るというのは頑張っている時点で一過性の非日常であり、〈生活という継続していく日々〉にはなり得ないだろうと思うんだよな、というタイプなので、なんというか読んでいてとても楽しい。

 山下「文化度って、加地くんは学生のとき、宗次郎とか喜多郎聴いてたんやろ」
山下賢二・松本伸哉『ホホホ座の反省文』P.75

 プルーストはマドレーヌ食って、突然色々思い出すわけだが、色々読んでいると、なんてことない一節でいきなり忘れていた記憶が蘇ることがあるわけで、自分にとっては、この「宗次郎とか喜多郎聴いてたんやろ」っていうフレーズが、プルーストのマドレーヌで、俺も聴いてたわ、中坊の頃!!っていうなんというかすげー、懐かしい。懐かしみ。

 なんならMIDIファイルで宗次郎とか持ってた気がするのだけど、もう懐かしすぎて調べてみたら、宗次郎自身を一躍有名にしたのがNHKスペシャルの大黄河ってwikipediaに書いてあって、CDのジャケット見たら、このCDうちにあったし!!みたいな、なんというかものすごくフラッシュバックしてきた。

そして、喜多郎⋯⋯、シルクロードでしたねぇ。

 一連のNHK特集、父親がせっせとビデオテープに録画していたような気がする。懐かしみながら一通り聴いていたら、まさかの娘がパパこの曲なぁに、って反応してきた。気に入ったらしい。数十年後、娘も宗次郎とともに親の記憶が蘇ることがあるんだろうか。いや、それはなんかやだな。


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