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僕とワールドカップ・1990イタリア大会❸創造力の戦い〜PK戦の重圧〜

どうもどうも、吉良です。

FIFAワールドカップカタール大会、日本代表の素晴らしい戦い(今年の漢字も「戦」でしたね)が終わりました。

新しい景色は見れませんでしたが、ベスト8をかけたクロアチア戦は延長戦の末引き分け、PK戦に持ち込まれる激闘でした。この時2006年から2007年の途中まで日本代表監督を務め、2022年5月に亡くなった尊敬するイビチャ・オシム氏のことを思い出しました。

オシム氏はこれまで書いた僕とワールドカップ・イタリア大会❶❷では内戦による混乱の最中であったユーゴスラビア代表の監督を務めていました。

僕は直接見ていないのですが、ユーゴスラビア代表は当時は選手であり、今回のカタール大会でセルビア代表監督を務めているストイコビッチ氏を中心に決勝トーナメントの準々決勝まで勝ち上がりました。

準々決勝ではマラドーナ率いるアルゼンチン代表と0-0で引き分け、PK戦の末アルゼンチン代表が準決勝に進出しました。その時の最初のキッカーがストイコビッチ選手で、PKを失敗しています。

この時のユーゴスラビア代表の敗戦と前回大会・今回大会のクロアチア代表のPK戦勝利には強い因果関係があると感じました。いや、3位決定戦も控える今、まだ感じ続けています。

ユーゴスラビア代表監督だったイビチャ・オシム氏は、1990年W杯イタリア大会の準々決勝、アルゼンチン戦でPK戦を見ずにロッカールームに戻っていました。

「PKはくじ引きみたいなもの」
確かにオシム氏はこのように述べていて、この言葉を日本代表のPK戦負けに引用している方もいましたが、そんな軽い話ではないのです。

真相はここにあります。
『PK戦が決まると、選手は次々にスパイクを脱ぎ始めました。蹴りたくない、の意思表示です。』
こんなことが当時、アルゼンチン代表vsユーゴスラビア代表のピッチ上で起こっていたのです。なぜ?なぜ蹴りたくないのでしょうか?

当時のユーゴスラビアは、宗教や言語の異なる6つの共和国で構成されており、解体、内戦の危機が迫っていました。実際に翌1991年から2001年までに国が分断され、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニアが独立しています。各民族・各共和国を代表していた選手にとって失敗は許されませんでした。

この選手の重圧を理解しながらも選手を指名したオシム氏は、PK戦を直接見ることができず、敗戦という結果をロッカールームで知ることになりました。このような想像を絶するほどの苦い経験を持っているからこそ、日本の代表監督になってからもPK戦を一切見ることができなかったのだと推察することができます。

旧ユーゴスラビア独立国はその後、約6年間公式な国際試合の場からも除外され、復帰は1998年のワールドカップ・フランス大会からになります。この大会で苦難を乗り越えたクロアチア代表はいきなり3位になっています。すさましい精神力ですね。

これほどまでの経験をした選手たちの精神力の強靭さは言葉では表現できないほどのレベルだと考えられます。それが特に極度の緊張と責任感が伴うPK戦において対戦相手との精神面で対比されるときに明白になっていると感じます。

クロアチアに対し、ベスト16でPK戦で敗れた日本代表も、準々決勝で敗れたブラジル代表も「蹴りたくないとスパイクを脱ぐ」ほどの精神的圧迫を受けた経験はサッカー史を遡ってもないでしょう。

その歴史をわずか30年前に経験したクロアチア代表の精神力は凄まじく、「PK練習が足りない」というコメントも、もちろん一理あるでしょうがもっともっと深いところに理由があるように感じました。

また、日本代表の選手がPKを失敗したときに「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」というイタリア代表のエースだったロベルト・バッジオ選手の名言を引用してPKを失敗した選手を擁護している報道を複数目にしました。

1994年のワールドカップアメリカ大会の決勝、イタリア代表vsブラジル代表でバッジオ選手がPKを外したときの言葉として報道されていましたが、これは明らかに調査不足であると感じました。創造力を働かせば分かる話ですが、ロベルト・バッジオほどの選手が自分でPKを外した後に自分自身を擁護するような言葉を発することはあり得ないことです。

実際には1998年のフランス大会でPKを失敗した選手に伝えた言葉だと言われています。1994年のアメリカ大会の決勝の優勝をブラジル代表に献上する最後のキッカーとしての体験があったからこその名言なのです。このことはnote「価値のある失敗のすすめ」でも書いています。

前述のイビチャ・オシム氏は記者から1964年の東京オリンピックから40年間で日本のサッカーがどのように変わったかについての質問に対して、このように回答しています。

「大きく成長を遂げていると思う。だが問題は、君たちマスコミだ。40年間、まったく成長していないのでは?」

2010年に日本の四大会連続のW杯出場を決めたことに対するインタビューの際には、日本のマスメディアの報道のあり方について苦言を呈しました。

「特定の選手の報道ばかりしてはダメだ。良い選手はたくさんいる。賛辞ばかりではなく批評はしっかりすること」

今回のワールドカップ報道についても、イビチャ・オシム氏が見聞きしていたらどう思うのだろうと考えます。選手たちをまるでタレント扱いし、ワールドカップの経験や体験のない芸能人やアナウンサーが現地に出張してお祭り騒ぎ。

もちろん、ものすごく勉強しているタレントさんもいましたが、大半は状況に左右されたコメント、スペイン代表に勝てば「ドーハの歓喜」、コスタリカ代表に負けるとすかさず「ドーハの悲劇」、またスペイン代表に勝つと、再び「ドーハの歓喜」。

なぜ、予選リーグをトータルで見れないのでしょうか?
「ちょっと黙っててくれ」相手チームも国の代表です。各チームが国の威信をかけて精一杯戦っている姿をもう少しリスペクトして見れないものなのでしょうか?

僕はこの報道に嫌気がさして途中からキックオフの時間にスイッチを入れて、試合終了でスイッチオフ、あとはAbemaのハイライトという見方をして純粋にワールドカップを楽しみ、本田圭佑さんの解説以外にはほとんど耳を傾けませんでした。

民放はいつものことですが、NHKまでがワールドカップの試合までもエンターテイメント化していてひどいものです。まだワールドカップに1998年に初出場してから7大会、24年の歴史しかない日本。

ワールドカップをタレントを含めたエンターテイメントにして選手までをもここまで巻き込む国は他にはないと思います。サポーターはとても重要ですが、純粋なサッカー応援団とサッカーを利用して自分を売り込む芸能の世界は別世界と考えるべきです。

実際にワールドカップに関わっているメディアの人たちの中で、ワールドカップが1930年にウルグアイの建国100周年としてウルグアイで開催されて、今回が92年目と知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

次回、2026年の開催地はご存じのように、アメリカ・カナダ・メキシコの共同開催ですが、その次の記念すべき100周年を迎える2030年の開催国が最初の開催国ウルグアイと、アルゼンチン・パラグアイ・チリの共同開催であることまでも知っているのか、疑問に感じます。

僕が夢見たワールドカップの世界はまさに厳しい予選を勝ち抜いた国の代表同士が全力で戦う真剣勝負の世界。それを利用する人たちの世界ではありません。賭けをしてる訳ではないのでゲーム予想など、どうでもいいのです。

サッカーそのものの美しさ、芸術性の表現、選手、監督、スタッフ、そしてサポーターを融合した姿。それは試合の中に凝縮されていて、まったくアナウンサー、解説者、ましてや芸能人の個人的意見など試合の前後にはさむ余地もありません。

試合そのものが芸術なのです。それこそがまさに「創造力の戦い」にほかなりません。

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