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「ちょっとの不便」が私たちの権利を奪う。(2019 11 13)

ふつうの人としてして扱われたい。

そう感じている人は、たぶん、この世の中に溢れているんだと思う。
学校に行けなかったり。外国のルーツがあったり。貧しかったり、性的指向が少しマイナーだったり。

配慮は必要だと思う。
学校へ行けなくても、外国にルーツがあっても、貧しくても性的指向が違っても、だからって馬鹿にされたくはない。
だからって勉強することや、好きな仕事に就くこと、新しい友だちができること、色んな場所へ行くこと、が制限されるべきではない。

学校へ行ってないと外出に後ろめたさを感じる。
外国にルーツがあるから、履歴書に名前を書きづらい。
お金が無いから、ごはん会や飲み会に参加できない。
書類に男女のチェック項目があって、いつも躊躇う。

そんなちょっとした不便が、日常には溢れている。

けれど、「特別な人」として扱われるのも、たぶん違う。
配慮は欲しい。でも私たちは、特殊な存在ではない。
ちょっと違うだけで、ただの人に過ぎない。

そもそも、「ちょっと違う」って、誰にとっても、すぐ近くにあるものだ。
親戚だったり、職場だったり、友だちの友だちだったり、ご近所さんだったり。
(自分自身が、自覚の薄い当事者だったり、ということもある。)

配慮をしつつ、ただふつうの、「隣の人」として扱われること。
それって、当然のことのはず。
贅沢なんかじゃ、ないはず。
でもそれがちょっと、難しいなぁと感じてしまう。

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「精神疾患であること」を隠す人はとても多い。
隠しているから、仕事がうまく行かなかったり、友だちと距離ができてしまったり、家族との関係がぎこちなったりする……ということは、よく起こる。

この間、たまたま出先で会った人に、「生きづらさに関する活動をしているんです。」と話した。
その人は、「必要だと思う!」と言いながら、急に私と視線を合わせなくなった。

「障害者手帳があるんです。」と言ったら、何と言われるんだろう。どんな反応をされるんだろう。

そう思うと、それ以上に話すのは躊躇わられた。
たぶん、攻撃はされない。
だけどなんだか、怖くて。

そんな日々ばかりだ。
大変なことはある。難しいこともある。

でも、ふつうに、なんの後ろめたさも無く、勉強したり仕事したり、遊んだり友だちをつくったり出来たらなあ、と思う。
どんな場所であっても。

ほんの少しの不便が、不安が、毎日ずっと続くこと。
それってけっこう、大変なことだ。

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