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高倉さん家の雑談(4) 陶芸について

これは劇作家の高倉麻耶とその夫Y.G(わいじー)の他愛もない雑談をメモしたものです。少々勝手な決めつけや独断偏見の類は笑い飛ばしてください。


・陶芸体験
夫:今回のテーマ「陶芸」だけど、我々のやっているのは「陶芸」と言うよりは「陶芸体験」。なので「陶芸」について話すとしても、ベースは「陶芸体験」になる。
妻:ではそれで。
夫:まず、「陶芸」の結果としては、「陶器」が家に増えていく。この場合の「陶器」とは、自分が作ったものとなる。「陶器」を作るためには、教室とか窯元に行かないといけない。さらにその前には、教室や窯元の情報を調べないといけない。百均で「陶器」を買う場合は、店行って買って終わり。この二つは何が違うか。
妻:体験をするというところが良いのと、オンリーワンのものという価値。
夫:ただ「陶器」を手に入れることを目的としたら、単価と効率が良い百均で事足りる。オンリーワンである必要もないし、自分で作る必要もないと思う。なぜ作るのか。
妻:面白いから? 作りたいという欲求があるかどうか。
夫:「作りたい欲求」は、分類したほうがいいと思う。観光地行って、「わあ、陶芸体験できるんだ、やってみよう!」という、体験目的の「作りたい欲求」。陶芸体験の場所に着いてから何を作るか考えている。別に使う気もないし必要でもない。完成品に目的もない。「陶芸体験をやってみたい」という目的。できあがった陶器が届いてそれを手に取り、旅行の思い出に浸る。我々は、それとは違う。まず目的が「理想とする抹茶茶碗を作り上げる」とか「模索する」。初めて行った窯元では、目的があることに、だいたい驚かれる。目的も求める形もすでに自分の中にある。やっぱり我々と観光客は別ということ。観光客からしたら、結果どんなのができてもいいんじゃないかと。
妻:よくTVCMで陶芸やってる女の子とか出てくるけど、あれは「陶芸体験やってみてます」というオシャレ感。「生活の中にヨガを取り入れてます」みたいな。
夫:オシャレ陶芸もある。

・作品として
妻:私的にはそういう陶芸ばっかりになってほしくない。もっと「作品」として大切にしてほしい。おせっかいかもしれないけど。
夫:作品って、思い出ではないんだよね。目的のある人になる。観光客の話はどうなるの?
妻:それで窯元や陶芸家が食べていけるってメリットはあるけど、陶芸を、単なるそういうものとして扱ってほしくないなと。大学のとき工芸の講義を受けたので印象に残ってるんだけど、第1回の講義のとき、紙が配られて、先生が「そこに知っている工芸作家の名前を書いてください」って言ったの。私、書こうとしたけど、一人も書けなかった。まったく思い浮かばなかった。その紙を回収して、先生がそれを見ながら言った。「毎年この講義の1回目で必ずこれをやるけど、5人書いてあったらすごい。だいたいが白紙」って。先生が言うには、「川喜多半泥子、北大路魯山人はよく挙がる。それ以外はほとんどない」って。
夫:芸術大学の学部の話だよね。
妻:そう。芸術にたずさわっている人ですら、工芸作家の名前は知らないっていうのが一般的な話。
夫:ときどき勧められたアニメを観るくらいの私だと、ラノベ作家とかアニメーターの名前が出ないのと一緒だと思う。その業界の人か、それが本当に好きな人以外は、知ったこっちゃないんだよ。
妻:陶芸を芸術として扱ってほしいというのが私の願い。
夫:個々人の芸術に対しての捉え方によるんだけど、究極は自己満足だと思ってる。自己満足にプラスして家族にほめられる。あわよくば他の人にもほめられる。まずは自己満足ありきなため、他人にほめられようが、自分が納得しなかったら意味ない。一般的には、芸術は自分の人生に関わることではないと認識している人が多いかなと。会社で「作品つくってる」っていう人、ほぼいない。
妻:二つの世界があるよね。作品を作る側の世界の人と、作品を作らない側の世界の人。
夫:その二つの世界が「陶芸」に対してのスタンスの違いになるのだと思う。目的があって作る人と、旅行の思い出で作る人との差でしょう。
妻:私はたぶん、自分が作品を作る側の世界にいるから、作品を作らない側の世界の人にどうやってわかってもらおうかっていう思いがちょっとある。
夫:私の家は、祖父から代々それぞれが何かを作ってきて、それぞれの作品が家に残ってる。それをサラリーマン生活の中でイレギュラーと理解している。だから、他の人には作品を作るという概念を理解できないっていう風にも思ってる。例でいくと、父や祖父の作品を入れ替えて飾るということを、してるって話を会社やサークル活動で聞いたこともない。
妻:一般家庭であるとすれば書や絵を飾るぐらいだよね。
夫:1回飾ってそのまんま。買った作品が、ホコリかぶったまんま飾られている。そのことに違和感を感じていない。二つの世界は相互理解ができないかな。「季節が変わったら作品を入れ替えよう」とか、そういう発想が生まれない。「絵が飾ってあるとオシャレ」とかマウンティングの道具にしかならない。

・生活の中に
妻:自分の家が特殊という認識は、大人になるまでなかった。普通にみんな家に床の間があり、掛け軸が掛けてあるもんだと思ってた。こないだの和菓子のときに話出たけど、家から客間がなくなって、「しつらえ」ということをしなくなって、美術が生活の中になくなってきている。
夫:芸術のある家庭とない家庭の差が出てくるね。芸術は、不要なものなんだと私は思っている。みんな別に要らないし使わない。我々は、しなくてもいいことをしている。なんでかというと、芸術を見ていて、そこに対して何か自分の満足に至っていないから、自分の満足するものを作りたいという欲求がある。例でいうと、ガンプラでシャアザクにビームバズーカ持たせたいという人もいるわけだ。そしたら、シャアザク買うだけじゃ完成しない。別の商品の部品を取り付ける。自分だけのシャアザクを作る。そういうことかなと思う。
妻:私が陶芸で印象に残ってる作品は、観たらすぐわかるんだけど、作者の名前がわからない。すごくインパクトのある作品だったから、もしどこかで展覧会をやっていて、見たらすぐに「あの人だ!」ってわかると思う。でも、作品と作者名がセットで記憶に残ってない。ふだんから美術展を観に行く習慣の人でさえそうなんだから、一般的な、美術展を観ない人からすると、もう陶芸なんて生活の中のどこにも関わってこないものだと思う。

・器か芸術か
夫:あなたが言っている「陶芸」は、食器ではなく芸術作品? 器としての用途があるのか、それとも芸術作品なのかで話は違ってくる。
妻:じゃあそこを分けて考えよう。器としての用途があるもので陶芸を考えてみよう。この際、人形とかノベルティも省く。
夫:いま器って大量生産で100円以下で買えるよね。一般の人はそういう認識だと思う。100円以下で買える器に価値はない。だから1回5千円払って自分で陶器を作るということに価値を見出せない。正確には金銭で価値を評価しないと、自分の生活の中で100円以下だから、他の品も100円以下にしか見えないという風になるかなと。
妻:じゃあ川喜多半泥子の割れてる金継ぎした器なんて…
夫:「なんで割れたのをボンドでひっつけて使ってんの、失礼でしょ」ってなるんじゃない?
妻:私、昔つくばに住んでた頃、よく笠間に行って笠間焼の焼き物を買ってたんだけど、マグカップとかコーヒーカップとか500円ぐらいで買えたから、気に入って使ってた。友達の誕生日のお祝いで黒い笠間焼の三角の大皿を3枚セットで、2千円で買ってプレゼントしたら、「こんなの百貨店で買ったら1万円以上する」って喜ばれた。こんなこと滅多にないよね。
夫:見る目のある人だったんだろうね。
妻:その子も美術やってる子だったから。
夫:結局ね、陶器に価値を見出さず、ひとときの思い出づくりの陶芸、もうひとつは陶器に価値を見出し、自分の中の理想像を目指す陶芸、その二つでしょう。目的が違うのよ。それはその人の生活環境や背景に依存する。二つの世界はわかりあえない平行線のままだろうね。
妻:たとえば朝ドラで陶芸の道にひた走る主人公の姿とかをやると、陶芸、流行るんだよ。そして流行が終わった途端、誰も見向きもしなくなるんだよ。
夫:陶芸そのものが目的じゃないもん(笑)。器に興味ないもん(笑)(笑)。「テレビで見たことを体験する」っていう思い出づくりが目的だもん。
妻:自分で作った器が生活の中で、ふつうに使うっていうシチュエーションは、陶芸作家ぐらいしかないね。
夫:自分の家のものを全部作る人は作家でもいないのでは。陶芸作家は今回のテーマに外れる。商売だから。食ってくためにやってるから。そこは抜きで考えよう。あなたは器に興味ない人に何かを求めてる?
妻:器を作るということについて切り捨てないでほしいとは思ってる。不要不急とかって切り捨てられがちだから。
夫:演劇とかにしろ、落語とかにしろ、音楽にしろ、「不要不急じゃない! つぶすな!」って言ってる人は、それで食ってる人なんじゃない? 興味ない人はそんなこと言ってないと思う。音楽や演劇、今回のテーマの陶芸、多くの人にとっては「どうでもいい。」「なくなっていい。」ってなってると思う。興味ないから。むしろ騒いでることに対して「不要な連中が必死に騒いでる」と思ってるかもしれない。二つの世界は永遠に交わらない。そして両者とも平行線の状況をどうこうしようとも思ってない。
妻:確かに、興味ない人の、興味がないことへの切り捨て方ってすごいよね。
夫:我々の好きなことでしゃべって考えればよいのでは。世間は興味を持てないというか、無理だなと思ってる。
妻:その考えは、例えば、「陶芸なんて好きな奴が勝手にやっていればいいのであって、公共のお金をそこに落とすべきではない」って考え方と一緒だよね。
夫:例えば「陶芸の里」とかの公的な援助とかはある。それは結果的に「観光客呼んでくれ」とか「税金増やしてくれ」のためのお金。そうすると窯元や教室は売上を上げなきゃいけない。絶対数からして、「思い出作り」のためにやりたい人の来客数の方が多いはず。その多いところから収益を上げなきゃいけない。文化とか芸術としては、我々みたいなのに来てもらわないといけない。大多数の人からお金を出していただいて、経営を成り立たせる。我々みたいな人はそこを利用させていただいて作品を作っていくとなる。別に選民思想があるわけではなく、ただ我々はマイノリティだと思っているだけ。
妻:私は自分や家族の作った器が、よい出来だと思えるものを、生活の中で器として使えるってすごく素敵なことだと思うし、その素敵なんだってことをできればわかってほしいと思う。
夫:無理じゃない? 価値観違うもん。同じ価値観だったら共感を得られる。

・価値観
妻:親戚の人に、自分が初めて作った器の中から、「これがいい!」と思ういちばん出来が良いものを贈ったけど、それがどう受け取られているかは心配だな。たぶんだけど、親戚の人にとっては、「あの子が作った」っていうのが、「娘が私の似顔絵を描いてくれた」みたいな喜びではあるかなとは思う。
夫:その親戚とは価値観一緒なんだと思う。価値観が合わない人については、そこにエネルギーを注がなくていいんじゃないかと。
妻:フェイスブックとかで、あるグループで茶碗の写真をアップしたら、たくさん「いいね」つくけど、それは同じ価値観のグループだからであって、世間一般の評価ではないということだよね。
夫:そうだよ。
妻:こないだ落語の話をしたときに出た話題で、ナゴヤ座が客を取りに行くアピール力がすごいって話があったけど、陶芸にも何かしらそういうのがあってもいいんじゃないかと思う。
夫:演劇や落語はね、上演時間2時間にお金を払うだけなんだよ。時間の消費になる。でもね、陶芸は違う。ものができあがってしまう。体験したタイミングでは、完成しない。ものが来て初めて案件がクローズする。2時間で終わる案件と、3か月かかる案件。一緒ではないと思う。
妻:それは、客をとりに行くのに、どちらも障害にならないのでは?
夫:私が見てると、「3か月かかります」って言われると「エーッ」ってなる人いる。思い出を今すぐ手に入れたいからなんだと思う。陶芸体験してるときは、作ってる最中。思い出はできてない。「結果を今すぐ」ってなる。「思い出を今すぐ」って欲求があるのだと思う。演劇や落語は、お金払って2時間後には思い出が手に入る。手に入るまでは楽しませてくれる。それに対して陶芸は1時間ぐらい楽しませたあとに、3か月待たせて、やっと思い出が手に入る。非効率というか…遅い。割に合わないのだと思う。
妻:ものづくりをする人ならわかってもらえそうな気はするんだけど…
夫:私はわかってもらえないと思う。観客からすると演劇とか鑑賞系は2時間。役者や脚本家が必死こいてる時間はカウントされないし、演劇の作り手たちの努力なんてどうでもいい。テレビ番組や映画、YouTubeとかと変わらない。だからお金を払う。呼び込んだら来てくれる可能性がある。ただ座ってれば思い出という「完成品」が手に入る。だけど陶芸は、自分で1時間か2時間、頑張らなきゃいけない。工業製品より劣ってる品で、不恰好なものを3か月後に渡される。あんまり嬉しくない。失敗作だからマウンティングもできない。観光客相手だと、ロクロもあんまりさせない。ロクロでやったとしても簡単なもの。失敗する前提で少しでも見栄えがきれいになるようなことしかさせない。それくらい、演劇と比べてお金と時間をかけて手に入る満足度が低い。そろそろ終わりましょうか。締めとして、我々が好きな陶芸にかける思いを話せばいいのでは?
妻:私は、陶芸の面白いところは。自分が思いもよらないようなものが答えとして出てきたりするところが、気に入っている。絵とかは、全部自分でコントロールできていないと不快だったりするけど、陶芸の場合、演劇と似ていて、自分がコントロールしていない、他の人との共同作業の結果として、想定外のものができてくるところが面白いと思う。
夫:作品は、土を触っている私の意図があって、それに対して窯元さんが釉薬つけたりとか、窯のどこに配置するとか意図をもってやって、そこにさらに窯でまわりのものとか火の勢いとか自然の不確定要素、その集合体ができる。誰一人として思った通りにならない。そのランダム性が面白い。めざすものを超えたり、想像外のものができるときがある。お金を出しても、それはたぶん手に入らない。作家性も計画性もない。徹底的な管理もない。百均では絶対手に入らない。ガチャかな? 天井なし、最低のガチャ(笑)。
妻:具体性が違うだけで、私と同じことを言っているような気がするね。

(2021年7月23日)

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