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#3 自分の世界を見つけて夢を叶えたときのおはなし


何かが終わって、何かが始まるときはいつも春です。


私が就活を突然やめたのは、震災があった3月の末のことでした。



なんの技術を勉強したいかはもう決まっていました。

ある朝、目が覚めて一番に頭に浮かんだのが、


〝ドレスを作りたい〟


でした。実話です。

直感とか、閃きとか、夢をみたとか、私はそういう感覚をとても大切にします。
人工的に考えて生み出すものよりも、神さまがくれた贈り物のようで、新鮮に、神秘的に感じるからです。

それが私の夢になりました。



もちろん両親からは大反対されました。

それはそうですよね、幼稚園から私立の学校に入れて、それなりに名の通った大学まで進学させて、あと少しで〝安定した〟生活が手に入るというのに。


それでも私は、〝安定〟より〝やりがい〟と〝幸せ〟がほしかったのです。


大げんかになりましたが、私の気持ちには一点の曇りもなく、説得し続けました。

4月に入ってすぐ、いくつかの専門学校の学校見学にいき、説明を聞いてパンフレットをもらって、文化服装学院を選びました。
文化を選んだ理由も、何を学ぶかも、どんな仕事がしたいかも、全て明確にして、
つい数日前まで、何年も自分が何をしたいかわからない状態であったのが嘘のように、まるでずっとそうなることを願ってきたように、自然に両親に話すことができました。


両親からは、条件を出されました。


「本気で言っているなら、自分で学費稼いでいきなさい。」


大学4年生になって、ほとんど授業がなくなった私は、アルバイトを専業並み以上に増やしました。
朝授業受けて、午後から働く日もあったので、ほぼ週5〜6日は働いていました。月のお給料は新卒よりも良いくらいだったと思います。

それでも、文化の入試を受けるまでに8ヶ月ほどしかなかったので溜まったお金はわずかでしたが、その熱意を認めてもらい、両親から許可が出て、援助をしてもらえることになりました。

大学まで出してもらって、本来なら親の責務が終わるところを、また2年延長となることは申し訳なかったので、
文化に入ったら、必ず、返済なしの奨学金を受けられるよう努力することを約束しました。



そしてついに、文化服装学院 服飾専門過程 服飾研究科へ入学して、洋裁の勉強を初めて本格的に勉強することとなったのです。


文化に入学して、私の世界は一気に花開きました。




これ…!!!これが私のやりたかったこと!!
やるべきことだったこと!!
私は22年間、何をして生きてきたの…!?
なんで早くこの世界を見つけられなかったの…!!!!




適材適所とはまさにこのこと。

授業内容とかではなく、私自身の居場所を見つけたことに感動し、衝撃を受けました。

そして同時に、なんでもっと早く始めなかったのか、という点で自分を責めました。
学校には高校を卒業したばかりの、10代のパワーあふれる子たちがたくさんいて、中には中学・高校からずっと服飾の仕事をしたいと思っていた、なんていうツワモノもいたりして、
自分のスタートダッシュの出遅れに、かなりの危機感を感じました。


奨学金のためもあるけど、これは本当に人一倍努力しないと、この世界でやっていけない…
専門卒業者でも技術職に就ける人はほんのひと握りなのだから…

両親からだって、許可してもらえたとはいえ「本当に大丈夫なの?」とずっと思われていましたし、
何を作っても「ふーん」程度の反応で、相変わらず凡才扱い。


この世界で私が本当にやりたい仕事に就くためにも、両親に本当に認めてもらうためにも、本気でやらねば!!と、火がつきました。



周りから見れば、「クラスに一人はいる、先生に気に入られるためにがんばっちゃってるクソ真面目なやつ」だったと思います。

率先して前の席に座り、たくさん質問をして、奨学金がほしいから成績優秀を狙っていると隠さずに言う。

周りからどう思われていようと、嫌われようと、私にはやるべきことがある!と言い聞かせていました。

…と言っても、それは私の気にしすぎなだけで、実際は幸いなことに、私の周りにはやる気に満ちあふれた、同じ志のある友人がたくさんいて、
お互いに励ましたり、協力したり、競い合ったり、私の力になってくれる人がたくさんいたから、私は急速に成長することができたんですけどね。

たった1年しか同じクラスでなかった友達でも、同じ地獄の課題の量をこなした戦友で、今でも大切な友達です。



地獄の課題と言いましたが、本当に、それはもう壮絶でした。

今思えば、もっと時間を有効活用する方法は色々あったかなと思いますが、
当時は本当に、新しく学ぶことの連続でいっぱいいっぱいだったのです。

服作りとは、ただデザインしてパターン(型紙)を作って縫うだけではありませんでした。

高校みたいな時間割があって、出欠も厳しい。
染料の配分とか、服装史とか、体の構造とか…
理科?社会?保健体育?
とまぁ、本当に今まで義務教育でダラダラ学んできたことが、一気に必要に迫られて、苦手な科目も何もかもやらなくてはいけない状況に陥りました。(英語がなかったことだけが唯一の救いでしたが。笑)

それでも全て好きなこと・今後の仕事に必要な知識と考えれば、がんばれました。

材料費もかなりかかったので、アルバイトもやめられず、365日、休むことなく、ひどい時は3日で2時間しか寝ていないとか、そんな時も普通にあって、
それでも何かに突き動かされているように、私の体と脳は動き続けていました。




本当に、本当に、楽しかったんです。

そして幸せでした。服を作るということが。




結論、私はAかSしかないという驚異的な成績表を生み出しました。

あんなにキレイな成績表、人生で初めてみました。
自慢してすみませんね、今思い出してもニヤついちゃいますよ。笑

大学までは、得意科目以外はだいたい平均前後で、英語・数学に至っては呼び出しを食らっていたレベル。
優秀とはかけ離れた、それこそ凡人でした。

それが、好きなことでこんなにも自分は変われるのだと、自分自身驚きでした。


無事に、翌年の授業料の半額の奨学金(本来は基礎科2年連続優秀な人が、翌年1年間ぶんもらえる奨学金だったのですが、私の場合は基礎を1年に凝縮して学ぶ科で、その科の人対象の奨学金制度がなかったので、特例で半年ぶんとなったようです)を受けることができました。



そしていよいよ、私が文化に入った一番の目的、ドレス縫製のための重要な知識が得られる科、文化服装学院 服飾専門課程 服飾専攻科 オートクチュール専攻 へ進学しました。


ほっとしたのも束の間、

「成績が落ちた場合、奨学金は返してもらいます」

という、学校から衝撃の宣告を受け、
私の奨学金のための戦いは続きました…

まぁ、2年目もAとSだけで埋め尽くしましたけどね!!もう意地でした。
どんなもんだ理事長!!と叫びたかったです。


オートクチュール専攻で担任だったのは、某オートクチュールアトリエで勤務経験のあった、男性の先生でした。

文化の先生は、学院卒業後すぐに文化に勤務する方が多かったので、現場の経験がある先生に学べたということは、運が良かったです。

その先生の手はまさに魔法使いの手。
特にアイロンはすごかった…!
なんでも思い通りに形を変形させて、美しいものが生み出される。

これが職人なんだ、と先生の手から目が離せませんでした。


先生の授業を受けるにつれて、私はただドレスを作りたいというだけでなく、

〝オートクチュールでドレスを作りたい〟

と思うようになりました。
オートクチュールとは何かということは、またいつかお話しできたらと思います。

ちなみに、その先生がある日何を思ったのか、突然机にひっそり名言を書き残しまして。
教室掃除中にそれを発見。
思わず撮影してしまいました。
今でも私のお守りの言葉です。




私の夢のかたちが少しずつハッキリしてきました。



ドレスを作りたい。

オートクチュールの技術を習得して、美しいモノづくりがしたい。
中途半端なモノづくりはしたくない。

家で仕事がしたい。
家にいれば結婚して子供を産んでも、子供との時間が多く持てる。

自分のブランドがほしいわけじゃない。
名誉欲もない。
外注で仕事をもらったり、お教室を開いたり、たまにオーダーを受けてドレスを作ったりして、
収入は生きていけるぶんだけ、家族との時間は大切にしたいし、それで好きなことができればそれが一番理想のかたち。



名誉欲はないとはいえ、結構贅沢な話ですよねぇ。


とりあえず、技術習得が最優先事項だったので、卒業後は就職を希望、二度目の就活をしました。

大学時代とは打って変わって、いくつも内定をいただきましたが、どれも初めは販売職、ゆくゆくは技術職になれるという採用で、技術にもドレスにも直結した仕事ではなかったので迷いはありました。

しかも、とりあえず選んだ会社は、卒業制作で一番専門学生が忙しい時期に、入社前のアルバイト(給金なし)を強要、何度もレポートやら作文やらの提出を求めてきて、挙げ句の果てには指定された資格試験(技術職には全く関係ないもの)を受けろという仕打ち。

卒業できなかったらどうするんだー!(しかもここまでがんばってきたんだから、絶対に成績優秀で卒業したいし!!)
ということでモメにモメ、
研修先で知り合った先輩に言われた、「販売職から技術職にいずれなれるなんて、ほとんどあり得ないよ。」の一言が決め手で、内定取消しを願い出ました。


卒業を目前に控えた2月末のことでした。
新年度まで残り1ヶ月。



あぁ…本当にどうしようかな。
また、「やりたくないことはできない」病だ。私は妥協して就職ができない。
オートクチュールの技術が習得できるなんて、もうフランスしかないかな。
フランス行きたいな…

なんて呟いていたら、先生から、

「今突然フランスに行っても相手にしてもらえないよ。日本である程度名のあるところに就職して箔をつけてから行かないと。フランスに行くのは絶対にその後の方がいい」

と喝を入れられ、
有名なブランドの会社はずっと、「私には無理」と決めつけて挑戦すらしようとしていなかった自分に気がついて、
急いでポートフォリオを用意し、募集がかかったばかりの某有名ウェディングドレス会社のパタンナー職に応募しました。


これがダメだったら、フランスに行こう。
フランスに逃げたいわけじゃない、だから本気で内定をもらえるようにする。


崖っぷちでした。

学校もディズニーも卒業したあとの面接でした。


デザイナーさんが直接面接をしてくださって、実技試験へ。

3月末のこと。




結果は…







縫製職で採用!!





ドレスを作るという夢が叶った瞬間でした。

25歳になる春、
遅ればせながら、ようやく社会人になりました。


そして、ようやく、父から


「よくやった、頑張ったね」


と言われました。



小学校から、絵を描いても、何を作っても滅多に褒めてくれなかった両親。
それは私のことを凡才と思っていたのではなくて、
我が子には才能があるけど、天狗にさせてはいけないと、
厳しくも優しい愛情表現だったのだと、


その時ようやく気づいたのです。

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