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世界はデザインでできている。

おはようございます!
だいすーけです。
6日ぶりの更新となりましたが、よろしくお願いします。
今朝は、秋山具義さん著『世界はデザインでできている』について、簡潔なレビューと考えたことを述べていきたいと思います。

ではではさっそく、どうぞ。



レビュー、本の概要。

『世界はデザインでできている』。
先週オーダーしたものが日曜日に届き、月曜日の午前中いっぱい集中して読んだ。
秋山具義さん、『マルちゃん正麺』のパッケージデザインをはじめ、数々のデザインを世に送り出した著名なアートディレクターの方だ。
大変失礼ながら、ぼくは秋山さんのことはtwitterではじめてお見かけして、それからこれまで手掛けられた仕事の内容を知った。
本書のレビューがいくつかのnoteに掲載されており、そちらが気になって今回この本を購入した次第。

中身は比較的平易な言葉で書かれており、「デザインってこういうものだよ」といった大枠の骨組みをさらりと紹介している形。
大学の授業の一般教養講義に「デザイン学概論」みたいなものがあったら、きっと本書のような内容の講義になるのではないかな、といったところ。
『第2章 デザインの作戦』では、秋山さんの手がけたデザイン、それが決定するまでの経緯が作品ごとに書かれており、それぞれが数ページ単位で簡潔にまとめられている。
『マルちゃん正麺』以外にも、ドラマ『相棒』、スポーツドリンク系飲料『アミノサプリ』など、「あぁ、あれね!」となるようなものもあり、多くの人が感情移入しながら読むことができると思う。

難しい用語も出てこないし明らかに専門書ではないから、とくにデザインの分野に明るくない人(そう、ぼくみたいな)には、ちょうどいい距離感の本だった。
ぼくの解釈が妥当なものかどうかはわからないけれど、「一般教養としてのデザイン/デザインの過去と今、そして未来」について、すこしでと興味があれぼぜひ。
手にしてもらえたら、面白いと思う。



思ったこと、感じたこと。本文の引用とともに。

ここからは、ぼくが思ったこと、感じたことをいくつかの本文の引用とともに書いていきたいと思う。

「デザインする」ということを狭義に捉えれば、デザイナーと呼ばれる人が「仕事」として行うことだと思われる。
けれど広義に捉えればそれはぼくらの「生活」そのものであって、毎日だれもがあらゆる場面で、何かにたいしてあらゆるデザインを施している。
部屋のレイアウト。
家具の色合い、ベッドやソファの固さ。
今日のファッション。
メイク、髪型、まとう香りさえも。
これらはみんな、ぼくらがデザインしていること。

今の世の中で、デザインというものは、重要というより、なくては生活が成立しないものなのです。
(P.10 はじめに)

目にする、という感覚を筆頭に、香りを、味を、手触りを、音を、ぼくらは様々に駆使して感じとってデザインし、そこにだれかのデザインをも取り入れていく。
それはきっと意識的にか無意識的にかは関係なくて、ごくごく当たり前のこととして。

だから、「自分らしく生きる」という言葉も、「自分で自分をデザインしている」と言い換えることができる。
あなたが「◯◯さんらしいね」と言われるようなもの、ことがあるだろうか。
創作物、ファッション、仕事、コレクション、嗜好品。
理屈で説明のつかないものやこだわりの積み重ねが、その人の人柄を形づくる。
性格、ライフスタイル。
それらがまた、その人らしいデザインをつくりだす。
そうして、循環していくものなのだろう。

言葉で説明できない「勘」や「感覚」をプラスしていくことで、その人の"デザインの人柄"というものが見えてきます。
(P.125 第6章 デザインの人柄)


デザインを仕事にできるかどうか(またはプロフェッショナルの優位性、これぞプロの仕事!と言わせること)、その境目は、スマホ(及びSNS)が普及した今の世の中、ふたつの理由で曖昧になりつつある。
まずひとつ。
世の中のデザインが、スマホに対応する必要性を求められるようになったから。
情報が欲しい、調べものをしたい。
そんなとき、今ではだれもがスマホをつかう。
ちいさな画面とにらめっこ、みんな下を向いている。
だから広告をはじめ、デザインのサイズはちいさくすることを余儀なくされた。
細かい文字で詳細を書けないから、わかりやすく印象に残りやすいロゴなどの需要は高まっているはずだ。
まずは認知してもらうこと。
クリックしてもらう工夫、これからもより大切な要素になっていくだろう。
ふたつめ。
SNSの発達により、だれもが気軽に発信することができるようになったこと。
これを後押ししたのは、紛れもなくスマホの存在だ。
たとえ無名のだれかのデザインでも、それがウケればどこかでだれかが手軽にそれを取り入れて、広めていく。
気に入ったらシェア、気に入ったらシェア。
「個」の時代、これまで限りなくパーソナルなものだったデザインたちが、だれかの目に留まる機会を狙っている。
彗星のごとく現れる、「個」。
これからもきっと、増えるはずだ。

スマホの影響によって世の中のデザインが変わってきているのです。
(P.24 はじめに)


ぼくがプライベート以外で「デザインする」機会があるかを考えた。
仕事の上で、顧客へ提案するライフスタイル。まさにこれが当てはまることだ。
一人ひとりの生活、性格、嗜好。
そうしたものを頭に入れ、「そこにこういうモノがあったら生活がすこし豊かに感じられる、幅が拡がる」を提案する。
提供するものへの意味づけ、日常への落としこみ、その理由。
ひとつのストーリーを提案し、その中にぼくの提供するものをすこしだけ添えていく。
これもひとつのデザインだということだ。
そのためには、まわりにあらゆる仕掛けを配置する。
思わず目を引く場所に、推したいモノを置く。
目線や動線を意識して、現場をつくる。
ちいさなデザインだけれど、そんなサイズのデザインの積み重ねが人のこころを動かし、結果(売れる/人の気持ちが高揚する)につながるのではないかと思う。
これは仕事ではないけれど、noteでもそう。
どんな話にどんな言葉を採用し、どこで行や段落を変えるのか、行間をどれだけつくるのか。
スマホで見たらどうなのか。
PCの場合は?
ヘッダーの写真はどんなものがいい?
行や段落を変えずみっちり詰めこまれたものと、適度に空間をつくったものとは、たとえ同じ内容だったとしても、伝わり方はきっと違うはずだ。
ぼくは基本的に、ふだんは柔らかさを重視している。
だから行間をたくさん取るし、段落変えも多い。
視界に入る文字の分量を極力減らすことは、意識しているつもりだ。

デザインには「形をつくる」だけでなく、「ストーリーを裏に入れ込む」ということも大事です。
(P.80 第3章 デザインの力)
そこで「手に取らせる力」が必要になってくる。
(P.113 第5章 デザインの時間)



過去をデザインすることは可能なのだろうか。

ここまで、本書を読んで感じたことを引用を交えつつ述べてきた。
ここからは、すべて自分の言葉で。

もはや生活そのものと言っても過言ではない、デザイン。
人の手によるデザインが可能な領域の範囲は、いったいどれくらいまで拡がっているのだろう。
時間軸についてはどうだろうか。
今を、未来をデザインする。
それは、わかる。
物理的なこと(必要なもの、好きなものをそろえるなど)で今をデザインする、タスクやスケジュールを整理してクリアにしてより効率的な行動に移すなど、環境的なことで今をデザインする。
中長期的な目標や夢をゴールとして描き、そこにたどり着くまでの過程を検討するなどして、未来への道筋をデザインする。

そう、それは、わかる。
それでは、過去は?
デザインが、人生をよりよくするためのものならば。
過去をデザインすることができなければ、デザインそれ自体にはその力に限界があると認めざるを得ないのではないかと、素人が不遜な考えを持つに至った。
そしてここに同時に結論を述べておくけれど、過去をデザインすることは、ぼくは可能だと思う。

いじめや虐待、障害、病気、大切な人との死別など、過去(から今につながるものも含めて)に傷を持つ人は多い。
生きれば生きるほどその数は増え、生きることが苦しいと思うようになる人もいる。
そんな中で、過去をどのようにデザインするか。
残念ながら、起きてしまった出来事は変わらない。
だから、ぼくらができること(デザイン)と言えば、その出来事に新たな定義を与え、その傷をこれまでとは違ったアプローチで解釈することなのではないか。
言うほど簡単ではないことは重々承知しているし、おまえなどにわかってたまるかという声があがるかもしれない。
もちろん、事実をねじ曲げてでも自分に都合よく解釈しろと言っているわけでもない。
ただそれでも、試みることは無駄ではないのではないかと思うのだ。
過去に向き合って、それぞれの出来事、傷を、これからの自分の人生をすこしでもよくするために、記憶やこころの中での配置換えをする。
ある出来事は、見なくてもいいから奥のほうに仕舞ってしまう。
ある出来事は、とらわれていた解釈からすこし距離を置いて、もう一度向き合ってみる。

ぼく自身にも、そのような経験がある。
これはもうだいぶ前に自分の中で整理がついていることだし、こんなふうに過去をデザインして再定義しようなんて思って克服したわけではないけれど、ひとつの実例として。
結果、今となってはこれでよかったと思ってさえいるくらいだ。

簡潔に書く。
それは、父親がいなかったこと(母は2度の離婚を経験している)と、おじさんが怖い、ということだ。
父親がいないことで、ひどい言葉を投げかけられた。
父の日に小学校で、ぼくだけ「おじいちゃんありがとう」の作文を書かされた(母の再婚中は、他人も同然のおじさんに宛てて「お父さんありがとう」を書かされた)。
父親がいなかったから、貧乏だった。
母が朝から晩まで働き詰めだった。寂しかった。
けれど長男として、それを口に出すことはできなかった。
ふたりめの父親は、酔ってはよく母に手をあげた。
大柄で体格のよかったその男は、母を守ろうと飛びかかった小学生のぼくの腕をつかみ、力任せに大きなタンスに向かって投げつけた。
それでも母はぼくに、「お父さんに謝りなさい」と言った。

そんなことの積みかさねは、確実にぼくの何かをねじ曲げた。
世の不公平を恨み、必要のない我慢を強いられ、人の顔色ばかりを気にしていた。
ぼくは恵まれていない。
なんて思ったけれど。
あるとき気づいた。
事あるごとに、優しいと言われる。
面倒見がいいと言われる。
父親がいなかったから、長男だから、我慢していた。
きっと、それがよかった。
誠実に話ができると言われる。
いやらしくなく、下手に出ることができると言われる。
おじさんが怖かったから、いつも人の顔色を窺っていた。
きっと、それがよかった。
ちいさな成功体験に裏打ちされてはいるけれど、周りの評価のみならず自分でもそう思えたこと、それを強みにしてみて行動して、ある程度の結果が出たと思えていること。
振り返りたくない傷だけれど、事あるごとに、真剣に向き合った。
そのときどきで、マイナスでしかないと思っていた自分の過去が、これからのしあわせのために存在したのではないかと思えるようになった。
結果、そう過去を再定義して、デザインした。
そこからの未来、今も含めての、自分の人生のデザインを一新したということだ。

簡潔に、と言って長くなったけれど、許してほしい。
わたしの傷とはレベルが違う。
そんな声もあるかもしれない。
けれど、どうだろう。
過去を再定義して、デザインすること。
よりよく生きるための手段としての、デザイン。
のみならず、カウンセリング、コーチング、素人意見で申し訳ないけれど、そのような他者の手引きによる過去の再定義、デザインも含めて。
それらは十分に、現実的なことなのではないだろうか。

だからぼくは、過去をデザインすることは可能だと思う。
デザインは、五感に訴えるものにだけ存在するものではない。
きっと、人それぞれの時間軸をも、人生をもデザインできる。

『世界はデザインでできている』。
それは、正しい。
素人が偉そうに、語らせてもらった。
けれど、過去をデザインすることさえも可能だと思えたなら、本書から学んだことはきっと、これからに活きるものがある気がする。
150ページ。
数時間の集中講義『世界はデザインでできている』、あなたもいかがですか?



おわりに

『世界はデザインでできている』。
上にも書きましたが、どんなにデザインについて疎い人でも面白く読みすすめることのできる内容の本でした。
購入する際は、もちろん新書でお願いします。

本を読んで感じたこと、後半に長々と書きましたが、最近ぼくにもデザインに深くかかわったイベントがありましたね。

さて、何でしょう。

だいぶ前のことに思えますが、先月のおしまいに「手書きnoteを書こう」のイベントを開催しました。
手書き、これってデザインの最たるものじゃないですか?
その「個々のフォント」によって、内容の伝わり方も変われば、印象も残り方も変わる。
それを意図してつかう、つかい分ける。
それも、立派なデザインです。
意識せずに行っていることの中でも、多くのことが「それはデザインだよ」と言えることなのだろうと思います。
これほどまでに、ぼくらの生活に深く関わっている、「デザイン」。
意識してコントロールすることができたら、また世界の見え方は変わっていくのかもしれません。

6日ぶりの更新、長くなりましたが、さいごまでお付き合いいただきありがとうございました。
以前、ショーン・タン『セミ』のレビューを書きましたが、絵本と解説書ってやっぱり全然違いますね。
あたりまえだけど。
もちろんこちらも、一生懸命書きました。
すこしでも興味が湧いたら、ほかの方々のレビューにも遊びにいってくださいね。

だいぶ寒くなりましたが、体調崩されませんように。
それでは、また。







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