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それでもぼくは、楽しみなんだ。

自分の属性を好きになれないというのもまあ何と寂しいことなのだろうとは思うのだけれど、こればかりは仕方がない。


ぼくは、おじさんが苦手だ。
もっと言えば単純に怖い。
正真正銘ぼくもおじさんなので、それには今書いたように何とも言えない虚しさがある。

ふたりの父親によって、ぼくのこの感覚は生まれたものだ。
古いアルバムにしか存在しない、ぼくの本当の父親。
弟をつくって消えた、アル中(真偽は不明だけれど)でいつも暴力をふるっていた(これは事実)父親。

おじさんというのはこういう生きものなのだろう。
ぼくがこういう思いを抱えながら育ってきたことにたいしては、そうじゃないよ、という意見もあるかもしれないけれど、仕方がないとは思ってもらえるのではないかと思う。

もちろん今は、この世の全おじさんがそうだと思っているわけではない。
酒に呑まれて暴れ狂う、そんな人ばかりではない。
だって、ぼくもおじさんだし、スマートで可愛げがあってカッコいいおじさんもたくさんいる。
仕事で触れ合う人。社内の人間、お客さん。
何ならみんなほとんどおじさんだし、そういう人たちにぼくは仕事をもらって、生かされている。
まともに会話もできるし、仕事の話なら厳しいことも言える。
ときに指示も出す。
上司も部下もお客さんも、ほとんどみんなおじさんだから、普段はこんなこと忘れている。
それでもある瞬間に、パッと記憶が戻ることがある。
怒っているおじさんを見ると、怖くて仕方がなくなる。
終電間際の電車なんか、よく乗ってはいたけれど、飲んだ帰りのおじさんたちに囲まれていると思うと怖くて仕方がなかった時期もあった。

ぼくのこうした気持ちは、おじさんというか父親というものに向けられたものだ。
だから、子どものころこそうちがひとり親家庭だったことにとてもコンプレックスを感じていたけれど、ある程度分別がついてからは、むしろ父親がいないということはよけいなストレスを抱えなくていいことなのだと納得していた。
母親に、父親の不在を補って余りあるほど愛されてきた自覚があるっていうこともあるかもしれないけれど。

でも、おりにふれて思うこともある。
もしぼくに、父親がいたら。
ぼくの人生は、今とはどれくらい違っただろうか。
どんな影響があっただろうか。
あこがれでも何でもないけれど、「もし」と思って想像の世界を旅することは、いまだにあって。




そんなぼくはまもなく、父親と呼べる(ようになるであろう)人に会おうとしている。
パートナーのご両親へのご挨拶を、間近に控えているのだ。
もちろん生みの親ではないし、これから育ててもらおうということでもない。
それでも。
男親というのはこういうものだったのかと、その片鱗だけでも感じることができる機会を迎えている。
ぼくはそれを、とても楽しみにしている。
緊張はするし、きっとおなかもピーピーになるだろう。
ちゃんと挨拶ができるか不安だ。
失礼なくふるまえるかも不安だ。
ちゃんと受け入れてもらえるかも不安だ。
お義父さんとふたりになったらきっと頭は真っ白だ。
どうしよう。
どうしよう。
もうすでにそんな言葉がぐるぐる回っているのだけれど。

それでもぼくは、楽しみなんだ。

甘えちゃいけないけれど。
馴れ馴れしくしてもいけないけれど。
「おとうさん」という言葉を自分が発するということを、ぼくはとても楽しみにしている。


彼女にご両親の写真を見せてもらった。
ふたりとも、優しそうな顔をしている。
頭がピカッとまぶしいおとうさん。
柔らかい笑顔で寄り添うおかあさん。
そう。
もちろんおかあさんに会うのも楽しみ。

ぼくのこれからの人生で、深くかかわることになるであろう人たちに、まもなく会える。
ぼくを育ててくれた母がいて、兄弟がいて、甥っこと姪っこがいる。
可愛い犬もいる。
大切な存在が、こうして増えていく。
これはきっと、しあわせなことなのだろう。
ぼくはそれを、しっかり噛みしめたいと思う。


noハン会に行けないのは残念だけれど、そこでみんなが素敵な出会いを果たすのと同じように、ぼくは飛行機に乗って、大切な人たちに会いにいく。
みんなもぼくも、きっと一生忘れない時間になる。
だからみんな、全力で楽しもう。
限られた時間をすこしでも有意義に過ごせるように。







<おわりに>
8月20日。
今日は、「親父の日」ということで。
まもなく迎える一大イベントについて、すこし書いてみました。

noハン会の成功を、当日は遠くからですが、願っています。
次、その次と拡がるような、すてきな時間になりますように。

それでは、また。







いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。