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57 ご縁が解(ほど)けてゆく時

小さな頃からずーっとココロの安寧を求めていた。
やっとこさ凪いだココロを手に入れた。今までいかに私の海が荒れ狂っていたのかが分かる。。🌊 
だけど近頃は、過去味わった大津波がどんなだったか思い出せなくなってきた。
記憶って不思議。
頭の中で後生大事に抱え額縁に収めていたその絵。頑丈な額縁を外してしまえば、その絵のパーツは
バラバラに離れていってしまい、形作ることをやめれば記憶形成の道は閉ざされていく。
“道”も“額縁”もこしらえたのは自分。

「額縁」は感情。
「絵」は記憶。
絵は額縁に収まっているから何度も味わえる。
逆を言えば、額縁のない絵はガラクタ。
感情がまとわりついた記憶しか何度も味わえない。その辺にゴロンと転がっている絵はただの“記憶”で、だんだん見なくなる。
トラウマなんてものはその最たるもので感情(額縁)を処理してしまえば同じ絵を見て同じ感情を味わうことなんてできなくなる。
しっかり味わい尽くし認めてあげると、感情はニュートラルに戻ってくるというのは、つまりそーゆーことだ。感情って大切だけど厄介だ。




さて、、今日はそんな重たい話はしない。
「人生で向き合うと決めてきた課題」は人それぞれ異なるけど、私はたくさんある中の一つに“友人関係”からココロの安寧を見出すことが一つの課題だったように思う。
かと言って波乱万丈なものではなく、むしろ人一倍静かに歩ませてもらった。おそらく私は、小さな頃から“ココロの孤独”に耐えてしまう魂だった。
だから友情を体験したかったのだ。
また一つ、魂の望んでいた学びが終了する兆しを受け取った。


もーすぐ春🌸
冬の間、一見朽ちてしまったように見えた桜の木々。枝の先には爆発しそうな生命力。緑の新芽がぷっくりと膨らみ待ち切れない。太陽も風も、土も緑も、目に見えないもので繋がっている。
散歩していると、今か今かと春を待ちわびる木々や草花、虫の足踏みが聴こえてくるみたい(*´艸`*)🌼
ある一定の環境が調えば、そのシグナルで緑の意識がポッと呼び覚まされる。人間もおんなじだ。
私も春になったら黄色い花をポッと咲かせよう🌸

おそろいのお洋服だ✨👚

ー『初めての心安らげるオトモダチ』ー
初めて「親友」と呼べる人ができた。
同じ高校の同級生Yちゃん。高校生時代、話したことはほとんど無くて、進学する大学が同じだと知り、それから一緒に過ごすようになった。
私は第一印象から彼女のことを「不思議な子だなー」と思っていたけど、つい数年前「アユちゃんのこと、ずっと不思議ちゃんだと思ってた!」と言われた。
え😃。なーんだ。やっぱりそゆことか。なんだか妙に説得力があって受け入れることができた。笑


大学では、私は中国語を、彼女はフランス語を選択した以外はいつも一緒にいた。同じ学部で学籍番号も近い。
毎日一緒に通学して、一緒にランチして、同じ講義を隣の席で受け、同じゼミに入り、授業が終わってからもYちゃんの車でドライブした。カフェでお茶したり、ショッピングしたり、Yちゃんの家で夕食をご馳走になったり、二人で沖縄旅行にも行った。
飛行機には乗りたくなかったけどYちゃんと一緒だし、水族館が好きな私は“美ら海水族館”のジンベエザメにも一度お目にかかりたかった。
私の人生で、たった4度の空の旅✈️⛅。
そのうちの1回はYちゃんとの沖縄旅行だ🌴✨
家族やオトモダチの事、それに恋愛の相談もできた。朝から晩まで同じ空間で過ごしても疲れなかった。

「これ、うさちゃんっぽいカラーだよ!!!」
「ほんと?♡ キャ😆買っちゃおうかなー♡」

大学生活のある日のこと。
待合せの駅のホームで「おはよう」と言葉を交わし、講義を2コマ受けた帰り道、「また明日ね。バイバイ👋」と言うまで、一言も会話しなかったことがあった。バイバイと言って別れた後に気づいた。
喧嘩してるわけでもない。気まずいなんてこともない。お互いマイワールドだった。 いや…、どうかな…🙄 少なくても私はたぶんずーっとYちゃんの横で脳内旅に出かけていた🌼


社会人になりYちゃんに素敵な恋人ができた。
Yちゃんは出張ばかりで全国を飛び回っていたし、私も当時、仕事の鬼だったから二人で会うことすらままならず、かろうじて年に2回お互いの誕生日付近に予定を合わせてご飯を食べながら近況報告しあった。

ぺちゃくちゃ…ぺちゃくちゃ…ぺちゃくちゃ…

Yちゃんがその恋人と婚約した。結婚式の前にわざわざ私の自宅まで彼を連れてきて紹介してくれた。
友人代表のスピーチを頼まれ、私は気合いを入れて着物でめかし込んで参列したらとっても喜んでくれた👘✨ 
Yちゃんは式に先駆けて実家を出て、新居で暮らし始めていた。そんな中、とある出来事を話してくれたことがあった。
Yちゃんがマンションの1階にあるゴミ置き場にゴミを捨てに行くと、カラスの仕業なのか、生ゴミたちが道に散らかりクチャクチャになっていたらしい。彼女は「仕方ないから掃除したよー😰」と言っていた。
それを聞いて思い出した。私は以前、出勤時に自宅マンションのゴミ置き場が散らかっているのを見つけたことがある。気になったのに出来なかった。
“みんなの”ゴミ置き場の掃除を自分のこととして進んで実践できる人ってそう多くないと思う。
Yちゃんはそのことを特別な事と思っている様子もない。世間話の流れで差し込んできた会話の一つだった。

彼女は大学生時代から「キライな人はいない」と言っていた。そう言えば愚痴、不平、不満を言うのをあまり聞いたことがなく、どんな残念なことが起こっても受け止めた後は笑っていた。
私の相談にはしっかりと向き合ってくれて、私の感じた感情をそのまま肯定してくれた。
今になって思うことがある。彼女といると疲れないのは、エネルギーを奪われないからだった。

世の中には「他人から何かしてもらおう」「他人から何がもらえるか」をひたすら念頭に置いて生きている人がいる。そーゆー人が周りにいると本当に疲れる。私は過去、その圧力を受けては、得体の知れない“エネルギー酔い”みたいな症状を発症していた。
そんなふうに「エネルギーを奪う人」が思った以上に存在する。勿論「与える人」もいる。理想的なのは“エネルギーがスムーズに循環する”関係性であって、どちらにしても一方的なのは実にしんどい。

例えば、、付けっぱなしのテレビを切った瞬間、ホッとしないだろうか。あの症状は言わずもがな、エネルギーを奪っていたものから解放された証拠。 逆に、山や自然の中に身を置くと気持ちが良い。
あれはエネルギーを無尽蔵に与えてくれるから。“自然”は私たちからエネルギーを奪ったりしない。
人によっては母親と電話を切った瞬間にドッと疲れてため息が出るとか、気の合う(と思っている)オトモダチと別れた瞬間ホッとするとか。

目に見えないエネルギー交流だからこそ注視していないと気づかないけど、必ずココロとカラダに大きく作用している。
本来、スムーズにエネルギー循環が行われていれば、何とも言えない至福感や幸福感、そして活力がみなぎり“元の気”に戻り、文字通り元気になるはずなのだ。

☽☽☽


昨年の私の誕生日。Yちゃんから恒例のバースデーメールが届かなかった。三日遅れで「素敵な一年になりますように。遅れてごめんなさい💦」とオメデトウをくれた。いまさらそんなことで壊れる仲じゃない。むしろバースデーメールなんて無くても信頼は揺らがない。
半年後、Yちゃんの誕生日、私は思うところがあってバースデーメールをしなかった。説明が難しいのだけど、決してヘソを曲げたわけではない。あえて言語化するなら、これは紛れもなくサインなのだと分かったから。これは私の意図的な選択で「来た波に抗わず、流れに乗った」結果。その時の私にとっては「メールしない」という行動を“選択”することが流れに乗る行為だったのだ。
元々、こんな杓子定規なメールのやり取りなんてしなくても一生繋がるべき縁なら解けない。逆を言えば、どうがんばっても解ける縁もある。
そんな思いもあって「流れに身を任せて」みた。



2024年3月。
もう3年くらい顔を合わせていなかったけれど、実は少し前から私の意識の中にYちゃんの意識が流れ込んできてた。だから私も“Yちゃんどうしてるかなー…🙄”なんて意識に昇る日が続いていた。

ご近所の八百屋さんからの帰り道、交差点の信号が青に変わりテクテクと雲を眺めながら歩いていた
丁度その時、、

「アユちゃんっっ!!!!」

懐かしい声に呼ばれた。
自転車の急ブレーキの音と名前を呼ぶ声が同時に聴こえた。二人目の赤ん坊を胸に抱っこし、後ろの座席にカワイ子ちゃんを乗せたYちゃんだ(*´艸`*)♡
道の端っこに自転車を寄せて「アユちゃんに会いたいなぁって思ってたのー!奇跡っ!!」と興奮していた。私もこの偶然は偶然ではないと確信した。
私はこんな奇跡がよくある。
いつも私のことを見つけてくれる人がいる。
約束しなくても会える人がいる。
会わなくても繋がっている人がいる。


「4月から茨城県に転勤なの」

さすがに遠い。東北は行ったことがないけどずっと行ってみたかった。Yちゃんが住んでるなら遊びにでも行きたいな。本気でそう思った。明るくて人当たりの良いYちゃんなら、どこでも楽しく生きていけるんだろうな。
また一つ、固く結ばれていたご縁が解けてゆく。
抗っても仕方ない。一生会えないわけじゃないけど、なかなか難しいことは理解している。
本当に長い時間、Yちゃんから愛を教えてもらった。そしてたくさんのことを学んだ。
ありがとうYちゃん◝(⑅•ᴗ•⑅)◜..°♡


人と人とのご縁って、不思議。
でも、それは自分で決めてきた。
なのに地球ではご縁を結ぶタイミングも解くタイミングも自分の手ではどうにもならない。いや、広い意味では自分から発動している。でも、要所だけ決まっていて細かいルートの決定権は自分にある。
でも、だいたいは自動運転のような気もする。
ここ数年で私の意識もカラダもエネルギーも変わった。放つ音が変化すれば、引き合う音も変化してゆく。出会う事象、出会う人、かかわることができる人が変わってしまうのは当然のこと。
また少し、景色が変化してく。

最後にもう一つ思い出した。
大学内にある建物。フロアの一角にピアノが置いてあった。空き時間を二人で過ごしていた時、ピアノが上手なYちゃんが触り始めた。
洋楽、邦楽などを含め音楽全般が大好きなYちゃん。
思いつきで私がリクエストした曲を即興で弾いてくれた。
誰もいない空間。
だいすきな曲を二人で歌った。
今思い出したのにも意味があるんだろうな。

合唱曲『旅立ちの日に』

Ayumi☽

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