見出し画像

【料理エッセイ】茶碗の中の宝探し


茶碗の中の宝探し


 はじめて料理本を購入し、一人で台所に立つようになったのは高校一年生の頃のことだった。当時、両親は飲食事業を営んでいた。仕事に育児に家事に奔走していた母は、自分も働く母となった今思えば、本当によくがんばっていた。

 両親は夕飯時にはいつも不在で、兄と妹と私の三人で食事をする。近くのスーパーで買ってきた惣菜を皿に盛って並べただけという日も珍しくない。テーブルの上に料理ではなく、数枚のお札が置かれているだけの日もあった。そんな日は近所のファミレスや定食屋さんに出かけて行って、それぞれが好きな物を食べる。(私のお気に入りは裏の小さな喫茶店で食べるアツアツのグラタンだった。)生意気盛りの冷めた女子高生だった私でも、だからといって母のことを軽蔑したりはしなかった。別に褒められもしないけど、母は仕事で忙しいから仕方がないと割り切っていただけだ。それに、『料理は愛情』については一点の曇りなくその通りだと思うが、その逆の『愛情が無いから料理しない』だとは不思議と全く思わなかったのだ。

 そんな母に代わって私は、料理本を見ながら兄妹の夕食を時々作るようになった。はじめはスパゲッティやオムレツ、グラタンなどの昭和の定番洋食メニュー。次第に煮物や焼き物などの和食家庭料理の献立にも挑戦するようになった。今、私が料理好きなのは、反面教師の母のおかげだと自信を持って言える。

 しかし、いま振り返ってみても、母の得意料理といえば茶碗蒸しくらいしか思いつかない。他にはどんな料理を作ってくれただろう?それよりも、最後に家族全員が揃って食卓を囲んだのはいつのことだっただろうか?……そのぐらい、あの頃の家族との和やかな団らんは遥か遠い記憶の彼方であり、それは、ずっと私が憧れていた光景でもあった。


 プラットホームに勢いよく電車が滑り込んだ。平日の午前中、この時間帯の急行列車の車内は人気もまばらだ。電車を降りてすぐの駅ビルで鰻の弁当を二つ買い、母が兄夫婦と暮らす家へとまっすぐに向かう。急な坂道を上って15分程の道のり。コツコツというヒールの足音が心拍と揃っていくのを心地よく聞きながら、私はテンポよく歩いていく。

 母に認知症の症状が表れ始めてから一年以上が経つ。腰を痛めて以来、母はすっかり家に籠るようになり、それをきっかけに症状は急速に進んだ。私は、同居する兄夫婦が仕事で留守の時間帯に、時々、こうして二人前のお弁当を持ち入浴の手伝いや話し相手をしに母を訪ねるのだ。

「美味しいね」
「美味しいわね」
「お母さん、昔さ、鰻のかば焼きとかマグロのお刺身ばかり買ってきてさ。切って並べるだけの手抜き料理ばっかり」
「そうだっけ?」「そうだよ。おかげで私、鰻とマグロが好きじゃなくなっちゃってさ」
「そうだっけねえ、贅沢だねえ」
「そうだよ、今じゃ鰻が高すぎて――」
 そう言って思い出話に恨み節を滲ませてみるが、母はのんきに、忘れたと笑う。
 母が箸で鰻をつつく音、時計の針が一秒一秒を刻む音が静かに響いている。飼い猫のココが鈴音だけを鳴らして現れると、母にすり寄って、ニャーンと言った。         

「お母さん、今度さ、茶碗蒸しを作ってあげようか」
「あら、いいわねえ。そういえば、私、茶碗蒸し、作ったことないわ」
「……お餅をいれるとね、すごくおいしいの」
「そう、いいねえ、おいしそうだねえ」

 料理が苦手な母の、唯一の得意料理だったあの懐かしい茶碗蒸しの中には、鶏肉と銀杏、そしてサイコロみたいに四角く切ったお餅が2、3個、いつも忍ばせてあった。茶碗蒸しの中にお餅だなんて良いアイディアだなあと子供心に感心したものだった。まだ熱い蓋をそうっと開けて、滑らかな薄黄色の表面にすっと匙を入れるあの緊張感。凝固した卵液の艶やかな美しい亀裂から、湯気と一緒にだし汁がじわあっと沁み出てくる。そうして半分くらい食べ進んだら、茶碗の底の四角いお餅の欠片を匙で探る。それが小さな宝探しのようでワクワクして、私には嬉しかったんだ。

画像1

 「じゃあ、また来るからね」
玄関を出て、ふたたび足音を数えながら元来た坂道を規則正しく下りていく。コツコツ、コツコツ、一、二、三、四。コツコツコツコツ。次第に、背後から照らす太陽に追われるように歩みは加速し、アレグロのテンポで刻んでいく。コツコツ、コツコツ、銀杏買わなきゃ、コツコツコツコツ――。目の前にまっすぐに伸びた影法師を追いかけるうちに、いつのまにか私は走りだしていた。コツコツコツコツ、ああ、こんなふうに坂道を駆け下りたのはいつ以来だろう!

 下りきったT字路の正面にある電柱にぶつかる寸手のところで、2,3歩よろめいて止まった。両膝に手をつき、前屈みの肩は呼吸に合わせて大きく上下を繰り返す。息が整い少し顔をあげると、側溝の脇から場違いに勢いよく飛び出したタンポポが見えた。 

 茶碗蒸し、か。美味しかったな、サイコロのお餅。あの宝探しーー。 

 ふと誰かの視線を感じた。母親に手を引かれた小さな女の子が無遠慮に怪訝な顔をして、折れるほど首を捻ってこちらを見据えている。慌てて左右の口角をきゅっと上げてみせる。女の子はぷいと前を向いて、母親に引きずられながらパタパタと行ってしまった。私は思わずプッと吹き出した。

 ため息ともつかないような深呼吸をひとつしてから立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。柔らかな大きな風が、頬を拭って通り過ぎていった。


「たからさがし」文・写真/茉莉花  (2019年4月)

©️茉莉花 All rights reserved.  文・写真・イラスト全ての著作物の無断使用を禁じます。



お仕事依頼やお問い合わせは下記アドレスまでご連絡お願いします。 jasmine.japanlife@gmail.com