かんたんな聖書と宗教(キリスト、イスラム、ユダヤ)の死生観と考え方

かんたんな聖書と宗教(キリスト、イスラム、ユダヤ)の死生観と考え方

・聖書系宗教の死生観

 聖書を元に成り立っている世界の宗教の代表がキリスト教、イスラム教、ユダヤ教です。
 世界の言論の世界では強力な影響力と発言力を持ちます。
 これらの宗教は共通点も相違点もあります。
 これらの宗教の共通点で特に日本人の多くに理解されてない、誤解されているのはこれらの宗教が持つ死生観です。
 我々は何かを分かった気になろうとする学習の特徴があります。
 ですから分かったような気になって実は分かっていないということが起こりやすいです。
 これらの宗教の死生観に対する理解は典型例です。

・復活を待つ

 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の共通点は死後、神様によって復活することです。
 復活するかしないかを神様がジャッジするのを審判と言います。
 ミケランジェロに最後の審判という絵があります。
 その審判です。
 神は死んだ人間が復活するかどうかを決めます。

・復活とは何か

 具体的に死者がどのように復活するかというと死体がそのまま蘇ります。
 腐っていようが骨になっていようが元の生きていた状態に復元します。
 象徴的な意味や比喩的な意味ではなく本当に蘇生するのです。
 このイメージはおそらく聖書文化圏になく、かつ聖書やキリスト教、イスラム教やその信徒に接する機会のなかった日本人にはピンとこないものだと思います。
 これは聖書やキリスト教に親しみのある日本人にさえ難しいようです。
 昭和の時代に山本七平というクリスチャンがいました。
 『日本人とユダヤ人』『空気の研究』などの著作で今は知る人もいるかもしれません。
 彼は大正10年生まれですがすでに3代目のクリスチャンです。
 両親は無教会主義で有名な内村鑑三のところで勉強していました。
 プロテスタント系の青山学院大学を卒業し学徒出陣や敗戦後の収容所体験があります。
帰国後は聖書学という学問の本を出版する専門出版社を経営し、自分でも聖書学を研究していました。
1970年頃から評論家として有名になります。
 山本書店の店主として聖書学関係の著作を自分自身でも翻訳、出版し、自身の著作も多数あります。
 彼は日本人はキリスト教や聖書を理解、納得するのは難しいだろうということを書いています。
 山本七平氏の御子息である山本良樹氏が父自身も復活を納得することはできなかったであろうということを絶筆となった『禁忌の聖書学』という本のあとがきで書いています。
 子息の山本良樹氏は神学の大学で神学を学んでいます。
 『禁忌の聖書学』という本の最終章では復活について書くという話が合ったようなのですが、戦中派で戦場でリアルな死や死体を見てきた父には復活が納得できなかったのではないかと書かれています。
 繰り返すと復活とは死者蘇生です。
 山本七平氏が亡くなったときは火葬だったようですが遺言でその一部かその全ての遺灰をイスラエルで撒いています。

・火あぶりと死体の保全

復活は死体が蘇生するので死体の保全が大切になります。
ですので死体がなくなってしまうような事態は避けることになります。
ですから宗教的な刑罰の方法が死体が損壊する火あぶりのようなものになります。
時代や地域や解釈によって変わるでしょうが火葬のような死体損壊するような処置もダメで土葬志向になります。

・聖書の生き返り

 聖書では死者の蘇生の記述がいくつかあります。
 旧約聖書でも新約聖書でもあります。
 一番有名なのはイエス自身が生き返ったことです。
 復活という点からこれは重要です。
 復活が可能なことの証明になります。
 これはユダヤ教の復活の考え方がキリスト教を通して布教されるきっかけになったかもしれません。

・復活するかどうかはどうやって決まるか

 復活させるのは神です。
 そこで復活を保証するのはラビ・ユダヤ教なら律法を守り神との契約を守ることです。
 キリスト教のカトリックが出来ると協会が神の代理人になるため審判と復活の保証についてある程度影響力を持ったかもしれません。
 プロテスタントになると主体的な信仰の大切さが重視されるようです。
 またカルヴァン派のような復活するかはあらかじめ決められているとい運命論の考え方もありました。

・復活のタイミング

 復活は人によってばらばらのタイミングで行われるのではなく一斉に行われるという考え方が強かったようです。
 終末や最後の審判などの考え方があります。
 未来に神が一斉にこれまでの人類の中で神が復活させようとする人を復活させるイメージです。
 この考え方は人類の終末が今にも来そうな雰囲気が強いと共感されやすいです。
 人間が死にやすかった昔ほど実感が持ちやすかったのではないでしょうか。
 また絶望やうつや悲観が強い時にも持ちやすいかもしれません。
 平和で健康な時代ではなかなか今すぐ終末が来るということにリアリティを持ちにくいので週末の日を待つという考え方になります。
 自分が生きている間も、死んだ後も、時には永遠とも思える悠久の時間を復活まで待たないといけません。
 こういうことが人々の死生観や文化に関係するのでしょう。
 西暦1000年頃は西洋では終末が来ると喧伝されたようです。
 それが十字軍などにつながるようです。
 日本でも紀元1000年頃には末世思想が流行りました。
 これは復活ではなく仏法が途絶えた時代という意味で終末の終末観とは違うと思います。

・日本人の死生観

 現代日本人の死生観はいろいろあるようです。
 浄土系の仏教が強いので死んだら誰でも浄土に行けるという気分があります。
 また輪廻転生を身近に感じる人もいるかもしれません。
 大乗仏教を極めれば色即是空、空即是色なので死語に対しては不可知論です。
 しかし五蘊無常で無我の思想で輪廻転生する主体である真我のアートマン否定の見方もしますからその影響を受けて死ねば終わりという考え方もあるでしょう。
 天台智顗の三諦論の影響の強そうな天台宗や日蓮宗はそれらの混ぜ合わせの気分でしょうか。
 日本の神話を見ると黄泉の国というのが出てきます。
 原始宗教をアニミズム、シャーマニズム、トーテミズムのように考える考え方があって、アイヌの熊送りや東宝アジアのシャーマニズムなど人間の世界の外に天のような世界を想定する考え方もありますが死後観との関係は分かりません。
 ちなみに聖書だけ読むと死後の記述に明解なものがなくあえて言えば黙示文学、黙示録は復活のイメージが記載されているかもしれません。
 あと古典派なんでもそうですが本文より注釈が大事と思われる場合も多いです。
 注釈が本文にいつのまにか変わる場合もあるほか、聖書以外の大切な文書も多いです。
 聖書編纂時に聖書に入らなかった外典・典外典の他、新約聖書、コーランかハディス、ミシュナなど各宗教、宗派には独自の聖典がありそれらが死生観を保管しているのかもしれません。

・反論も

 日本人のクリスチャンに聞くと復活というのは精神的なもの、或いは比喩的なもので死者の蘇生ではないということを仰る方がいます。
 そちらが正しいのかもしれません。
 他方でやはり死体の復活を信じ、死体を傷つけるのを忌避する聖書系宗教の信者がいるのも確かでしょう。

・待ち続ける

 終末感がない世の中でもいつ来るか分からない復活を悠久の時をかけて、時に永遠とも思える時間を待ち続ける生き方をする人たちがいます。
 この感覚は日本人には分からないのではないか、という意見もあります。
 そのためキリスト教でもイスラム教でも日本人はとかく誤解しがちという考え方があります。
 分かったような気になりやすい心の仕組みがありますし、誤解や間違えがあっても終わってみればどんな結果であれ何とかなっているように感じるのが人間の心性としてあります。

・信じるのは神だけではだめ

 聖書文化圏では信じるのは神だけではだめです。
 神と復活をセットで信じるのが必要です。
 それに程度の差はどうあれ死体が生きていた時の姿に戻るイメージが共有されます。
 例えば骨しか残っていないならそこに臓器や筋肉などが復元していくイメージです。
 欧米カルチャーのゾンビや不死に対する拘りにも関係していると思います。

・信仰の二元論

 聖書の宗教が当たり前の世界では全てが神が死者を復活させるということを信じるか、信じないかの二択しかありません。
 強力な二元論です。
 絶対的に神と復活を信じるか、信じないかです。
 その中間というものはないしそれ以外というものもありません。
 これは強力な力を持ちます。
 個人の内面の葛藤だけでなく社会的姿勢や位置づけを決定します。
 この両者は良くも悪くも対立することもありますし差別・区別につながりますし排他性や独善性を生むこともあります。
 聖書系の宗教以外の思想もこの傾向を持ちます。
 自らの思想を絶対化するか、しないかです。
 近代のマルクス主義のイデオロギーが典型です。
 
 
・仏教の特殊性

 聖書系の宗教は世界の宗教、思想の中でも大勢力です。
 また聖書系以外の宗教も自らを絶対視する傾向があります。
 特殊なのは仏教です。
 仏教は何かを絶対視しないというのが中観という中心教義なので聖書系の宗教からすると煩わしい存在です。
 ただ仏教の全ての宗派ではなく聖書系の宗教に似た宗派もあります。
 また哲学の完成系と言える現代思想のポスト構造主義も何かを絶対化しない思想です。
 社会ではどちらもはっきりした位置づけが難しい考え方です。
 万人が共有するには難解な面があります。
 絶対主義イデオロギー的な思想に押されがちです。
 見方を変えると聖書系の宗教は絶対主義で、相対化することを認めない感じです。
 仏教は相対主義を絶対化しているとも言えます。
 ただ絶対化と言っても話や言説のレベルが違うのがポイントです。
 


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