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心を焼きたてのトーストの上で溶けるバターのように溶かす方法。

先日、東京は日本橋を歩いていて、ふと映画を見たくなり近くにあったTOHOシネマズに入りました。以前から見たいと思っていた「coda~あいのうた」がやっているかなぁ?と掲示板を見ていると、ちょうど10分後に始まるじゃありませんか。たまたま映画のや水曜日だったらしく、1,200円でチケットゲットして即入館!YES!

最近、「ふと〇〇したくなった」という感情を大事にしているのですが、今回もこの感情に従ってよかったと思っています。僕の人生は変わりました。
この映画によって、そして、映画館で映画見るという行為によって。

映画の内容は割愛しますが、僕は後半もう泣きっぱなしでした。
映画を見てあんなに泣いたのは人生で初めてのことじゃないかな。
ハンカチを持っていなかったので、トレーナーの袖がもうぐしょぐしょ。

思いきり衝撃的に感動するシーンがあったわけではなく、通奏低音のように僕の心に響くものによって、それが頂点に達し自然に涙が流れたんです。もちろん後半は感動のシーンの連続ですが、それ以上にこの映画には全体から醸し出される温かさがありました。その温かさによって、固く縮こまってしまっていた僕の心が、溶解されたという感覚です。まるで焼きたてのトーストの上に置かれたバターがゆっくりと溶けていくように。

僕はそんなふうになった自分に久しぶりに会いました。
いつしか僕は自分には必要のない感情には蓋をして・・・いや、蓋をするまでもなく、その感情に出会えるようなキッカケすらなくなってしまっていたのかもしれません。この前、こんなふうに映画館で映画としっかり向き合ったのはいつだったのか思い出せません。
もちろん、NetflixやAmazonプライムなどで、いつでも手軽に気軽に映画を楽しくことはできます。そういうものを利用して時折映画は見ています。でも、楽しむことはできていても、本当の意味で楽しめているのか?というと甚だ疑問です。

僕は今回codaを見ながら、堰を切ったように大泣きしてしまったことで、そのことを痛感しました。僕たちは映画を見ながら、映画だけを見ているのではないんですよね。映画を"通して"、自分自身のことや、自分の家族のことや、過去や未来のことを投影しながら、映画を見ているんです。それは単に「見る」という行為ではなく、「向き合う」という行為がないと成り立ちません。家で、何かをしながら見る映画では、それは不可能なんだと思う。表面的にストーリーを掬うことはできても、深い場所から汲み取り上げることは不可能なんですよね。自分の中に深く深く入っていくことはできない。

映画館という「空間」の中で、スマホの電源をしっかりと切って数時間の間映画とぞんぶんに向き合う。真っ暗な空間の中で、他の誰かの存在を気にすることもなく、というよりも気にする余裕もなく、映画の中に、そして自分の中に入っていくというその行為は、映画館に行くという"セッティング"があって初めてできる体験なんだと気がつくことができました。手軽さ、気軽さには、それは絶対に不可能なんだと思いました。

映画が好きな人って、それがわかっているんでしょうね。
映画館にわざわざ行く人って、素敵な人が多いと思っていましたが、そこに大きな理由があるのかもしれないな、なんて思いました。

実際に、僕は、このcodaを通して、この数年間に負った(あるいでは負っていたであろう)心の痛みを「治癒」することができました。その証拠に映画を見ながら、僕は心身ともに軽くなっていることに気がついたのです。

エンドロールが終わり、館内が明るくなると、僕の左側の少し離れた場所に座っていたサラリーマン風のスーツのおじさんと目が合いました。彼は、ハンカチを手に目を真っ赤に貼らせて、鼻水を啜っていました。そして、僕と目が合うと、少し笑顔になって軽く会釈をしてくれました。

「いい映画でしたね。」

言葉もなく、お互いの真っ赤になった目だけでそんな会話をして帰宅しました。


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