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たからものnote

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素敵なクリエイターさんたちの素晴らしいnoteをまとめています。
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#エッセイ

本当にほしいもの

温泉旅行にいった帰り、有名な神社に立ち寄りました。 参道を行くと、上杉鷹山(1751~1822)の詠んだ歌がありました。 心打たれて、しばらく石碑の前から動けませんでした。 こんな人、みたことない。こんな人、いるんだ。傷つくことがあった後だったので、なおさら響きました。 この人になら、どこまでもついていきます。と言いたくなる。 貧しい藩で、たいへんな苦労があったけれど、家臣とも民とも信頼でむすばれて、大飢饉のときに一人も餓死する人を出さなかったそう。 人がほんとう

たまごのプリンの大冒険。

愛とは何かを問われたとき、一番に思い浮かぶことは「おいしいものを一緒に食べたい」ということだ。 小学生だった頃、給食で出てくるプリンが大好きだった。 そのプリンが献立に入っているときは一週間前くらいからそわそわが止まらずに 前日から当日になれば、食べ終わってしまうこととの恐怖と戦い。 プリンひとつで、それはそれは感情を掻き乱される日々を過ごしていた。 無事に食べ終わったその日家に帰れば、今日もプリンはおいしかったという話をする。 母親は「そんなにおいしそうなプリン、食べ

息子の声の演技に泣いたよ 幸せをありがとう

息子が劇でとある役を演じた。 当日のカメラ撮影は禁止。 わたしは弱視で視力が0.01~0.02ほどしかないので、カメラを使って拡大しないと離れているとよく見えない。 じゃあ特別にお願いしたら?と思う人もいるかもしれないけど、わたしはたくさんいる他の保護者に誤解を与え、不信感を抱く人がいたとしたら、その人が当日楽しめなかったら嫌だなと思って、相談して一番前で見ることを決めた。後日DVDももらえるし、当日はわたしの見える範囲で息子をしっかり見ようと心に決めた。 でも、わた

クリスマスに思い出す

早いもので十二月は三分の一を終わろうとしています。 月が変わる前から街を歩けば、クリスマス一色です。 流行り病で皆さんが我慢していたいろんなものが膨らみ、弾けているようにも思います。 私が子どもの頃に今ほどクリスマスだからといって各家庭が、街中が大騒ぎまでしていたのか記憶にありません。 ケーキに興味はなく、サンタクロースよりも年始で我が家に酒を飲みに来る、お年玉をくれる父の会社のおじさんたちのほうが好きでした。 でも、毎年母が、勤めていた病院に出入りしている食品納入業者か

そこにあるもの

先日、宅配牛乳のモニター案内が来た。 時々やってくるそのお願いは、 うちは注文しません!といくら跳ね除けても 飲んでアンケートを書くだけで良いので。 と強行だ。 牛乳や健康にいいと言われる アルファベットやカタカナが溢れたラベルが ついた乳飲料とともに玄関に置いていかれる。 私が子供の頃、実家は牛乳配達と、駄菓子屋で生計を立てていた。 牛乳瓶を見ると、裏のお宅に私が三輪車の後ろに牛乳を乗せて配達していた姿が蘇る。 すごく褒められて得意になった。帰りにおやつ

どんな感情の中にも時に大切なものが眠っている

2014年、26歳の時。 ブラック企業をなんとか辞めて、ほとほと疲れていたわたしは、けれどのんびりしていられるほど貯蓄に余裕はなく、とりあえず派遣登録をして働くことにした。 働くことになった会社で、本業務とは別に総務のような仕事もすることになった。 アスクルで備品を発注したり、みんなが出す郵便物の重さを測ってまとめたり、コピー機が壊れたら業者さんと連絡をとったり、などなど。 その作業自体は、嫌いではなかった。 問題だったのは、その会社では総務は部署を設けておらず、派遣社

小さな奇跡を起こすのは、いつだって一歩前へ進む勇気。

気づけばフリーライターという仕事を始めて25年が経つ。 ただ、ずっと順風満帆だったかといえば、決してそんなことはない。請け負っていた案件がクライアントの都合でほぼゼロになったこともあるし、仕事量が増えるばかりで自分が書きたいものは書けないと悩んだこともある。 人脈も何もないところからのスタートだったので、最初の頃は「何でもやります!」のスタンスで仕事を請けてきた。 だから、あらゆる媒体でいろんなことを書いてきたが、30代も半ばにさしかかった頃、「いつまでもこんな”なんでも屋

オンリー・ワンでなくホンモノを

私が、購入する際に最もこだわるものは、米だ。 それは、祖父母が米農家だったことにある。 将来は自分で米を作るぞと意気込んではいるものの、まだまだ遠い夢だ。でも、いつかは良い米を作りたいからこそ、米の品種や作られる過程や、米の美味しさにこだわった生産者の方のものを頂きたいと思い、とことん調べて購入するようにしている。 一昨年から米を分けてもらっていた農家の方と、最近、少し残念なことがあった。 その農家の方は、とある雑誌の記事で知った。 旦那さんがお米作りをはじめ、様々な農

何でもない日の墓参り

「だいぶ耳も遠くなって、電話してもちぐはぐなんだよ。俺達は今年は行けないから、お前が時間がある時に、墓参りがてら様子を見てきてくれないか?」 「お安い御用だよ。」と了解した。 電話の相手は父だ。 若き日の父が、嫌でたまらなく飛び出した 生まれ故郷のほど近くに私は嫁いでいる。 因縁、引き寄せ、巡り合わせ。 いろんなことを人に言われたが、 私はばあちゃんに呼ばれたと思っている。 ばあちゃんの帰りたかった場所に 私が代わりに帰ってきた。そう思っている。 私が住む

自分が弾く意味

「君より弾ける人、基本的なことができている人はたくさんいるよ。中身はどうだか知らないけど」  大学入学前、厳しい恩師にお世話になったお礼のあいさつに伺ったときに、そう言われた。  自分のできる限りの範囲で、自分の好きな音楽をやろう。そう思って入学した。注目されたいという気持ちは一切なかった。要するに野心がなかった。野心を抱くだけの力がそもそも自分にはないのだからという、若さに似合わぬ諦めもあった。ただ「中身」だけは4年間で詰め込みたいと思っていた。  ところが、いざ入学すると

愛をこめて花束を

誰かに贈り物をするのが好きだ。 記念日に、お祝いに、久しぶりに会う友人に。 何が良いだろうか、喜んでくれるだろうか、使ってくれるだろうか、邪魔にならないだろうか、そうやって長い時間考え、あれこれと悩み、選んでいる時間が好きだ。 そしていつも「どうかこの気持ちが少しでも相手に伝わりますように」と願いを込める。 この祈りにも似た願いは、私の後悔と懺悔から生まれている。 話は私が12歳の頃にさかのぼる。 小学生だった私は、放送委員長だった。 お昼の放送や運動会のアナウンスを

お母さんの側に居ます。

こんにちは☺️✨児童養護施設出身・少年院出身の青年をサポートする、NPO団体 スマイルリングでの、青年達との日常をnoteします✨ さっき仕事から家に帰ってくると 手紙が届いていた。 いつも電話をくれる 私をお母さんと呼んでくれる 東京にいる少年院出身の“息子”からだ✉️✨ 封を開けて一行読んだら 滅多に泣かない私が もう泣いてしまった。 お母さん。 母の日の手紙、遅れてしまってすみません。 なんて書いて良いのか分からなく 書けないでいました。 自分は本

子どもの『間』に、ひそむもの

ずっと子どもが苦手だった。 3人兄妹の末っ子で自分より小さい子と接する機会が少なかったし、性格的にも面倒見のいいほうではなかったからだと思い込んできたけど、きっとどちらも根本的な理由ではなかったような気がする。 子どもをただ眺めているだけだったら、ああ可愛いねえ、元気だねえ、と心がほくほくするのだけど、いざ対面して話をすると、なんだかいつもドギマギしていた。 何が苦手だったのかというと、あの『間』だ。 「すきなもの、なあに?」 なにか話しかけると、子どもはピタリと固