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長い時間の中で/教育に時間は流れているのか

長い間、子どもたちと学んできた。

ずいぶんと生徒を増やし教室が増えていくと、宇部で授業をして教室移動、山口で、下松で、広島で、なんてことが日常だった。

車の運転は片道1時間どころではないから、随分と飽き飽きしたけれども、
現場に入ることを続けてきたので(うち、1年間だけ経営のみにシフトしたが子どもたちの変化に応じるためすぐに戻った)、そういうスタイルを取らざるを得なかったのだ。

ちょうど、ノマドワーカーという言葉が(都市部で)流行った頃で、自分の机はどこにも持たず、ノマド的に仕事をしてきた。地方ではどこよりも早い段階での社内クラウド化は、必然のことだった。
今もあまり自分の机は要らないので、このたびのzoomセットが(モニターやらなんやらを置いておくしかないので)、唯一の自分の机になっている。


長い間子どもたちと学んできて、特に2010、2015、2020年の時の流れの中での子どもたちの変化とともに、学びの場作りは変化をして来た。
否、変化をして来たというより、ここ10年ほどで先んじて、取り組みをして来たという方が適切だろう。


5年前、10年前にメッセージしていたことは、今になってようやく理解されるだろうと思う。

おそらく今の、主体的に学ぶ場、個別最適を実現しようとする学び場は、10年前にはコース設計をし、提供し始めていたはずだ。当時はさほど理解されていなかったけれども。

未来への学びの場作りの、経験やノウハウは、かなりの蓄積があり、リードがある。


それで改めて、公教育の現場を見る。


・・・・あろうことか、10年、20年、なんと変わっていないではないか。


見かけ、ゆるさを身につけた分はあるけれども、これは家庭や地域の要望に沿って、致し方なく、に見える。

ずいぶんと我々は歩んできたはずなのに、古代都市の様にそこにある公教育とは一体なんであろうか。

我々は本当にそんなものを望んでいるのか?

今も?


先日、早速不信感の募る出来事があった。


何十年も記憶を遡るのは難しい。

その記憶に辿り着かねば、何十年も前に古びているはずのその価値観を、未だ信奉する人たちのことを理解できないだろう。


もう忘れ去られた記憶のはずが、その記憶の断片と共に残されてしまった価値観が、学校には未だ存在するのだろう。


果てしない旅路をゆく。
来る日も来る日も。

川は流れゆく。
そこにじっと留まることなく。

時は過ぎゆく。
忘れたくない記憶もその場所に一瞬であっても留め置くことができない。

少し歯痒い。

それでふただび教育に想いを巡らす。

果たして、教育に時間は流れているのだろうか。

どうもそこだけが止まって見えてしまう。
止まるはずのない時間が。


もしかしたら、そこには大きな歪みが生じるのかもしれないし、実は僕らが目にしているものは、すでに崩れ去った後の廃墟なのかも知れない。

長い間、子どもたちと共に学んできた。

時間は流れてゆく。

(終わり)


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