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集団授業における先生の才能とその才能が不要になる時代のお話/新しい先生像へ

民間で先生的な仕事をやると、ものすごーくシビアな世界なので、
力がない人は、あっという間に、仕事を続けられなくなります。

私はこの仕事が好きで、私はこの仕事をやりたいの、
なんて、
残念ながら、市場経済の中では通じないのです。


あらゆる世界、業界には、それに必要な実力というのがあります。

努力でなんとかなる場所もあることは否定しませんし、努力はどの世界にいても必要なものであることは同意が得やすいことだとも思います。

それを踏まえた上で、世界によっては、「才能」や「センス」という超えられない壁が存在する場所もあることもまた事実です。

だからできれば、親や周囲が勧めるからという理由だけで、仕事を選んでしまうことは、
避けた方が良いとも思います。

才能やセンスが影響しやすい世界の一つに、集団授業や一斉講義があります。

講演会をされる方なら、講演なんかもその一つです。


多くの先生を雇用しかつ育成してきて、はっきりとわかることは、
この手のパフォーマンス(一斉授業は明らかにステージで演じることに似ているということです。
演じられない人には向きません。
音楽ステージに立ったり、出方としてテレビやラジオに出ていた経験からもこれを書いています)は、最初から、「ひかる」奴がいます。(あえて愛情を込めてヤツと書きます)。
これはもうどうしようもない事実なのです。

当たり前なのですが、何にでも向き不向きはある。
ちょっとこれはそのことが好きとか嫌いとかとは別のことです。
“好き嫌い”と“向き不向き”がマッチしない世界はやはりあるのです。


僕で言えば、ヘビーメタルが好きですが、歌うのはどうも合わない。
歌なんてのは、元々の性質や声量など身体的にもって生まれたものは少なからずどこかで作用する。自分の才能が生かされるジャンルを歌う方がやはり良いのです。


一斉講義型授業の領域も、合うヤツがやった方が良い。
ひかる奴はもう1回目の模擬授業をしてもらうと大体わかる。
強いて言えば、実際に生徒の前でやるところ見た方が確実ですけれど、その1回で大抵わかるんです。
初心者とか経験者関係なく、わかる。とにかく、初めてでも、ひかるんです。とてもわかりやすい領域なんです。


話を戻しましょう。

努力は当然するものとして、あえて、才能というものが人にはある。

その際たるものの一つが、一斉授業の先生な訳です。


幸い、市場においては、淘汰が起こる。
これは市場としては非常に健全で、経済学を学ぶとわかるのですが、市場の原理の一つです。淘汰は起こるべきであり、当然のことでもあるのです。


ところがです。

これが公務員の先生には淘汰がない。残念ながら。

これが非常に厄介なところなのです。


一斉授業、講義型授業というのは本当にタチが悪いんですよ。
そうじゃなければ良いとよく思うんですけど、僕の願いは虚しく、現実は変わりません。
努力したい、先生になりたい、と、この仕事が好きで好きで、チャレンジする人を見てきたのですが、現実は非常に残酷です。

さらに追加するなら、先生同士で受けが良い、認められるな、という人であっても、子どもや親御さんの支持がなければ、やはりやっていけない。

そんな残酷な現場を多く見てきました。


資格や免許さえあれば、授業上手なんでしょ?というのが成り立つような領域ではないですから、免許を持ち、採用試験に受かったとしても、やはりそれでは足りないんです。


残酷なことだと知りながらそれでもなお、あえて書いています。

必要なことだからです。


ところが今、そこに希望があります。

勘の鋭い方はお分かりでしょう。


そうです、一斉・講義型授業は終わりを告げるからです。


なぜそうなのかは、各所で発信してきていますので、動画「教え方2.0」等でどうぞ。



述べてきている通り、問題は私たちが抱く先生像です。

はっきり書きますけど、例えば僕ら世代の描く先生像は、
金八先生であり、泣き虫先生であり、熱血先生なのです。

それらの基準は、わかりやすく、そこにいる生徒「みんな」に「一斉」に語りかけるものであるということです。

でも、想像してみてください。

そこにいる生徒たちが、「みんな」という感覚を持てず、そもそも「みんな」という存在が一体何のことかがわからないとしたら?
その先生は「一斉」に語りかけることが可能だと思いますか?


時代はすでに次のステージにきていると子どもたちをみていて思います。

理想とする先生像を変えない限り、今の子どもたちに物事を伝えることは無理だと、現場にいて強く思います。


言語化が難しかったので、会社をNPOにしてこの5年、実践して、みてもらうことでそれを明らかにしてきました。

なぜ僕の作る場で、子どもたちがのびのび学べるのか、話が伝わるのか、それをみてもらうことが今はできる。

もちろん僕はかつての手法で特別な成果を上げてきて今があるので、過去の先生像の素晴らしさも過去の手法にも理解はあるつもりです。


ただ、7-8年前にすでに、「この手法を続けていては、ただ生徒を叱るだけ、怒るだけになる」ということに気づき、周囲の先生に伝えました。
かなり前から現場にいればわかっていたことなのです。
これも大事なのであえて書きますが、授業がとっても得意な僕が「このままこのやり方では無理だよ」と言っているのです。
これがとても大事なことで、そのくらいに子どもたちは変容してきたのです。
もちろん、悪いことではありませんから誤解のないよう。

一斉講義型は、かなり長いスパンで、もうそれが無理なことを、子どもたちが示してくれてきたわけです。


だからこそ、希望がある。

これまで、才能に恵まれてないから、と言っていたその才能が、もう必要なくなっていくからです。


ここでは、一斉・講義型、いわゆる集団授業について述べてきました。

その才能はもはやどうでもよくなる。

それよりも大事なことは、
新たな先生像をどこに置くのか、どのように見立てるか?なのです。


これは明らかに新たな子どもたちの特性、進化によるものなので、未知でしかない。
誰にもわからない。
しかし、わからないからと言って、教育は投げ出すわけにはいかない。
だから、トライし続ける必要がありますし、できれば、先端をいく先生が発信しシェアしていった方が良い。


こうなってくると、子どもたちへの理解が非常に大事になりますから、
この点については、先生だけの問題ではなく、親御さんにも覚悟が必要になってくる。

覚悟と書くのは、先生もそうなのですが、自分たちにない価値観、知らない価値観を受け入れるのは、誰にとっても痛みを伴うから。覚悟のもとで、子育てをする必要がある。


以前も書きましたが、僕の世代にはわかりやすいと思いますから、引用しておきますね。

僕らは、「今まで覚えた全部、デタラメだったらおもしろい」という現実を今、突きつけられることになるのです。まさに「そんなことあるだろうか?」(ブルーハーツ『情熱のバラ』の歌詞より)

考えなければなりません。


子どもたちの未来のために、自分たちの価値観を差し出せるか、否か、を。


私たちのプライドが崩されていく痛み。
それと引き換えることでしか得られない、子どもたちの未来。

自分の痛みを恐れ、かつての価値観を貫き通すのか、
それとも、子どもたちの未来のために痛みがあってでも価値観をアップデートするのか。


今まさにそれを突きつけられているのが、私たち大人世代、子育て世代なのです。


これから、かつての一斉授業が売りだった先生は、
才能如何に関わらず、時代によって淘汰されていくことになります。


そして、これまでの才能ではない、
新たな子どもたちを導くためのスキルを見出す時がきています。


(走り書き)

FB投稿より
-終わり-





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