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幸福の傘


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1(続き)
「ねえ、亜美はどうしちゃったの?大丈夫なの、亜美は?」
 耳に氷を押し当てられた気がした。舞衣の声は、いつもより低いばかりではない。不安とか恐れとか怯えといった暗い感情を孕んでいた。今ここで決して聞きたくはない声だった。
 それでも舞衣には、もっと詳しく事情を説明してもらう必要がある。奈保は訊こうとした。しかし声が出てこない。玄関の亜美に聞かれてはならないというプレッシャーのせいだ。奈保は泣きたくなった。
 すると、幸いなことに舞衣の方から話し始めた。沈黙に耐えられなかったのだろう。
「いきなり来たのにもびっくりしたんだけど、とにかく普通じゃなかったんだよ。なんていうか雰囲気が。顔はうっすら笑ってるんだよ。今まで見たことがないくらい優しい顔。でもそれが逆に薄気味悪くって。言うことも変でさ。しばらく会えないから挨拶しに来たって言うから、なんで、どこに行くのって訊いても、ちょっとね、としか言わないし。じゃあ奈保のところにも行ったのかって訊いたら、あの子はいい、あの子は一緒に行くからって」
 コンコン、と背後でドアをノックする音。続いて亜美の声。
「奈保」
 亜美の手に直に心臓を掴まれたようだった。奈保はスマホを両手で強く耳に押し付け、立ったまま硬直していた。舞衣が喋り続けていた。
「でね、私なんだか怖くなってきちゃって、合コンの結果のこと、亜美に教えちゃった。いや、あれを内緒にしてたことが、なんか関係してんのかなと思って。奈保、あんたバラした?」
 ドンドン――もはやノックの音ではなかった。拳を力任せに叩きつけている。何度も。固まっていた脚がポキリと折れたように曲がり、奈保はしゃがみこんだ。
「奈保、どうしたの?奈保」
 ドアを叩きながら、亜美は苛立った声を上げる。スマホからは異変を感じたらしい舞衣が、「どうかした、奈保?」と同じように訊いてくる。奈保の目から涙が溢れたが、「舞衣、助けて」という声は出せない。亜美はすぐそこにいるのだ。ドアノブのレバーがガチャガチャと音を立てて上下する。
「奈保、聞こえる、奈保?」
 亜美の声はいよいよ大きくなった。スマホでは舞衣が奈保の名前を呼び続けている。
 うるさい、うるさい、うるさい!
 奈保はスマホの電源を切り、便器の上蓋の上に置くと、両耳を手で塞いだ。亜美の声もドアノブの音も小さくはなったが、まだはっきり聞こえる。
 それがやがて聞こえなくなった。奈保は手を耳からゆっくりどけてみた。亜美が弱々しく言っているのがわかった。
「ねえ、大丈夫?大丈夫なんでしょ、奈保?聞こえてたらここを開けて、お願い」
 それを聞くうち、奈保は思った。もし今の亜美が、前の亜美じゃなくて、私の考えているような亜美だったとしたら、こんなドア、破ってでも擦り抜けてでも入ってこられるんじゃないだろうか。それをしないのは、それができないからで、つまり亜美は私の考えているような亜美ではないのではないか。奈保の気持ちが少しだけ前を向いた。
 それにもし、亜美が私の考えているような亜美になってしまっているのだとしたら、尚更、ここに閉じこもっているより外に出た方が、この窮地を脱する可能性が高くなるのは明らかだ。
 奈保は上蓋に手をついて立ち上がった。意外と足はしっかりしていた。スマホを尻のポケットに入れ、振り向く。鍵を外して震える深呼吸を一度した後、ドアをじわじわと開いた。亜美の姿はない。ドアと壁が作る角度が九十度になろうとした時だった。ドアの陰から亜美が現れたと思ったら、いきなり飛び掛かってきた。奈保はレバーから手を離した。それしかできなかった。目をきつく閉じ、全身を強張らせた。想像もできない苦痛が襲ってくるのを待ち構えた。
 が、そんなものはやって来なかった。すすり泣く声が聞こえてきただけだった。奈保は体の力を抜き、目を開けた。すぐ前に、亜美の泣き顔があった。
 奈保が口を開くより先に、亜美が涙声で「奈保」と呼びながら抱きついてきた。声も立てずに亜美が泣いているのが、息遣いでわかった。
 奈保もまた呆然として声も出ず、抱きつかれたまま立っていた。
 やがて、落ち着いたらしい亜美が言った。「よかった」
 それがスイッチとなった。奈保の頭も体も正常な動きを取り戻した。亜美の体が冷えきっているのに気付いた。服を通しているとは思えない、異様な冷たさだった。エアコンを切ってからしばらく経つというのに、どうしたんだろう、と奈保は不思議に思った。
 次に考えたのは、亜美が泣きながら言った「よかった」についてだった。そんなに心配してくれてたのか。ちょっと大袈裟じゃないか。亜美だから、感情が変に高ぶってしまったのか。ということは、亜美は前のままの、普通の亜美っていうこと?
「最後はこういう形で終われて」
 希望的観測に捉われていて、奈保は今の亜美の言葉を聞き逃してしまった。
「え、何?」
「そして新たなる旅立ちを、こうやって始められて。ねえ、新たなる旅立ちって、ちょっとカッコよくない?」
 亜美は奈保の問う声が聞こえなかったかのように、意味不明な話を続けた。
「私達って親友でしょ?親友だったでしょ?授業も一緒、ランチも一緒、合コンも一緒」
 奈保は舞衣の話を思い出した。
「あの、亜美、その合コンのことなんだけど」
「あの子の黄色い傘を盗ったのも一緒」
「……」
「最初に手に取ったのは私。でも奈保だって結局は使ったじゃない。幸せの黄色い傘だなんて言って、嬉しそうにさしてみせたじゃない。なのに私だけが悪者みたいに言うのは許せない」
 亜美が何のことを言っているのか、奈保にはすぐにわかった。追い詰められ、二宮聖香に投げつけた言葉。
 盗ったのは私じゃない!亜美が盗ったの!
 それをどうして亜美が知っているのか、これも奈保には今はわかる。やはりこの亜美は、前の亜美ではないということだろう。密着した体は冷たさを増した。確実に弾力は失われ、粘土が貼り付いてくるようだ。といって柔軟性はなく、身動きがとれない。酸味がツンと鼻を刺す、嫌な臭いがしてきた。
「でも大好きだった奈保だから、びっくりさせたり、怖がらせたりせずに、どうにかしてできるだけなんでもないような感じで連れて行きたかったんだけど。ごめんね、元の姿のままでいられるの、もう限界みたい」亜美は再び泣いているようだった。
 パニックの中、それでも奈保は唯一自由がきく肘から先の腕を必死に動かし、服の背中の生地を掴んだりしていたが、どうかしたはずみで、右手の指先が亜美の髪の毛に触れた。ついに突破口を見出した思いで、右手を大きく開き、指先で髪の毛を掻き寄せて掴むと、下に向けて力任せに引っ張った。
 ほとんど手応えがなかった。ブツブツっと音がして、髪の毛はいとも簡単に抜けたようだった。奈保は驚いて、握っていた右手を開いた。が、髪が離れたようには思えない。きっと手汗でへばりついているのだ。ちぎれんばかりに手首を振っていると、喉の奥に何かを詰め込んで喋っているような声が耳元で聞こえた。
「何すんだよ、痛いだろ」
 奈保は息を詰めた。背中に回されていた亜美の腕が緩み、互いの体が少し離れた。しかし奈保は動かない。逃げ出すことなど、もはや忘れていた。
 亜美の手が奈保の両肩に置かれ、亜美の顔が奈保の正面に来た。押入れから転がり落ちてきた時の顔だった。何も見ていない目。洞窟のような口。そこから顎へと伝う吐瀉物の跡。気付けば着ているものも、あの時のTシャツに変わっている。
 口の動きはなかったが、声は聞こえた。
「自分だけ生き残れると思った?駄目だよ、一緒に行くんだ」
 亜美が笑ったように見えた。それを最後に、奈保の意識は遠のいて、戻ることはなかった。
                             <終わり>

「幸福の傘」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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