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幸福の傘


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1(続き)
 二本の腕がスッと消えてなくなった。掴んでいたレバーが下に動いた。何がどうなっているのかわからないまま、押してみるとドアが開いた。
 すぐそこに亜美が立っていた。死んだはずの亜美が。目も口も開けたまま、ひどい格好で転がっていた亜美が、今は昨日と同じ、白いブラウスにレモンイエローのスカートを身に着け、こちらを見て立っている。口元に汚れもない。ただ、心配そうな表情をしている。
 立ちすくむ奈保に、亜美が言った。「奈保、大丈夫?」
「大丈夫じゃない!」と叫んだ時、あたりは一瞬にして暗闇と化した。それでも亜美の声は続けて聞こえてくる。
「奈保、ねえ、奈保」
 声の出所を探して、闇の中、顔をあちこち振り向けるうち、目の前が次第に明るくなってきた。
 亜美の顔があった。上から覗き込んでいる。どうやら自分が仰向けに寝ているらしいことに奈保は気付いた。
「あ、奈保」
 亜美が声を弾ませた瞬間、奈保は跳ね起きた。頭と頭がぶつかりそうだったのを、亜美がのけぞってよけた。
「ちょっと、危ないんだけど」
 横に座って文句を言いながらも笑っている亜美を、奈保はまじまじと見つめた。ドアの外にいた亜美と同じ服を着ている。喋っている。笑っている。死んでいた亜美とは違う。亜美は死んでいなかった。いや、これは本当に亜美なのか?
 奈保はヨロヨロ立ち上がると、亜美から目を離さず数歩下がって距離を取った。それから四方に目を向けた。間違いなく亜美の部屋だ。
 ハッと思い立ち、隣の部屋に駆け込んだ。押入れの前に立つ。襖は閉まっている。恐る恐る取っ手に手を掛け、思い切って引き開けた。何かが飛び出してきたりはしなかった。中には布団や衣装ケース、段ボールの箱があるだけ。
 そうだ、テレビは、と元の部屋に戻り、画面を見た。テレビはついていなかった。テーブルの上にあったリモコンを取り上げ、電源ボタンを押した。画面にバラエティ番組が映った。いくつものボタンを押してみた。チャンネルは普通に切り替わる。最後に再び電源ボタンを押した。画面の映像が消えた。そこから、あの恐ろしい顔が浮かび上がることはなく、消えたままだった。
 ぼんやりしながらリモコンをテーブルに置いた時、思い出した。そういえば、テレビのプラグは抜いたはずだ。急いでテーブルの横を回ってテレビの後ろを覗く。プラグはコンセントに差し込まれていた。奈保はノロノロと元の位置まで戻った。怪訝な顔付きの亜美と目が合った。
「何してるの、奈保?大丈夫?」
 膝の力が抜けた。奈保はその場にペタンと座り込んだ。
「だって」涙が溢れ出る。言葉も。鼻水をすすりながら、脈絡もなく次から次へと垂れ流した。
「聖香って子が殺されて、黄色い傘のせいで、そしたらテレビに顔が映って、押入れで亜美が、亜美が」
「わかった、わかったから落ち着いて」
 奈保は暫くしゃくり上げた後、最初から問いただしていこうと切り出した。
「電話したでしょ、十時過ぎ頃。ごめんなさいとか、怖いとか言って」
 少しの間があり、亜美が答えた。
「うん、まあね」
「だから飛んできたのに亜美はいなくて。どこ行ってたのよ!」
「ごめん、急に用事ができちゃって」
「用事?それどころじゃなかったんじゃないの?大変な目にあってたんじゃないの?」
「うーん、いや、まあ」と、亜美は口ごもる。照れ臭そうな顔で視線を落とした。奈保は察した。
「嘘だったの?ごめんなさいとか、何か来るとか、全部お芝居だったの?」
 亜美は目を上げ、ニッと笑ってみせた。奈保は安堵で全身の筋肉が緩んでいく心地よさを覚えたが、直後に怒りがこみ上げてきて、亜美にぶちまけた。
「もう!私がどれだけ心配したと思ってんの?何度も電話したんだよ、なんで出なかったのよ」
「えーっと、それはね」と、亜美は言いよどんだ後、続けた。「わざと出なかったの。だってあんな電話かけた後で、すぐ電話に出るのっておかしくない?」
 そりゃそうか、と奈保は思う。電話に出ないことも、お芝居の続きだったというわけだ。いよいよ腹立たしい。つっけんどんに奈保は尋ねる。
「で、急用って何?テレビもエアコンもつけっ放し、ドアに鍵をかけるのも忘れて出なきゃならないほどの用事だったの?」
「そ。でも、すぐ帰ってきたんだよ。そしたら奈保が倒れてうなされてるんだもん、びっくりだよ」
「当然でしょ!あんな怖い目にあったんだから。あれも」奈保は言葉に詰まった。あれも亜美のお芝居?そんな馬鹿な。あんなこと、どうやったら亜美にできるっていうの?無理だ。だとしたら、あれは――
「あれは、なんだったの?」率直な疑問が奈保の口を突いて出た。
「こっちが訊きたいよ。一体、何があったっていうの?」逆に亜美から尋ねてきた。
 奈保は、あの悪夢のような出来事の一部始終を、亜美に話して聞かせた。聞き終えた亜美は、
「じゃあ、その二宮聖香って子が、傘を盗られたことを恨んで、私や奈保に復讐しに来たと、そういうこと?」
 奈保は頷いた。
「で、私はもう殺されてたんだ」
「そう、押入れの中で」
「て言われても、私、生きてるしなあ」亜美は拗ねたように言ってみせた。
「だから、私、何がなんだか」
 そう言うと、奈保は首を振りながら俯いた。
「幻覚だと思うな」
 亜美の言葉が聞こえた。奈保は顔を上げた。得意げな亜美の顔があった。
「大学で事件を詳しく知った奈保は、それを、昨日私達が傘を借りたことと結び付けて考えてしまった。つまり、事件のきっかけは私達がやったことにあるんだって」
「いや、別に私はそんなこと」
「無意識のうちに、よ。真面目な奈保には、やっぱり良心の呵責ってもんがあったんじゃない?それが、そんなふうに考えさせた。そこへ私があんな電話をしたもんだから、一気にイメージがリアルに膨らんだ。ここに着く前に、もう幻覚は始まってたんだよ」
 そんなことがあるのか?奈保にはすんなりと受け入れられない。亜美の表情は自信に満ちている。できれば亜美の言葉を信じたい。が、どうしてもできなかった。ナレーターの声。テレビの中で見開かれた目のよどんだ色。押入れから転がり落ちた死体がぶつかる衝撃。背後からしがみつく腕の感触。血の匂い。どの記憶もが、あまりに生々しいのだ。
 なんとも答えられずにいる奈保に、亜美が続けて言った。
「じゃあ、最後に決定的なことを教えてあげる」
 亜美の目がひときわ大きく開いた。奈保は息を詰めて次の言葉を待った。
「私、あの傘、今日の昼間に、もう持ち主に返しちゃった」
                           <次回へ続く


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