見出し画像

幸福の傘

 
 1
 黒灰色の雲が急速に空を埋める。あたりは怖いほど暗くなった。
 ぽつ、ぽつ、と大きな雨粒が落ちてきたかと思うと、一気に土砂降りになった。
 三百人は入れるS大学五号館の五百二十五番教室では、四限目、社会学概論の講義が終わろうとしていた。
「うわっ、すごいね」
 教壇側から徐々にせり上がっていく座席の列。その一番後ろの窓際で、波多野亜美が外を眺めたまま呟いた。
「ちょっとぉ。今日、降るって言ってた?」振り向いた亜美は、ふくれっ面だった。
 隣の川島奈保は、そんな文句、私に言われてもと思いながらも笑顔で「さあ、どうだろ」と答えた。が、奈保は知っていた。午後から大気は不安定に、お出かけの際は傘を忘れずに――朝、お天気お姉さんがテレビ画面の中から、そう忠告してくれていたことを。
 でも、こんなに晴れてるじゃん。降水確率は、たったの二十パーセントだし。トーストを齧りながら観ていた奈保は、お姉さんの忠告を無視した。それが、この結果だ。
「案外、すぐやむかもよ、夕立みたいに」と、奈保は亜美に言った。癇癪を起こす亜美をなだめるのは、奈保のいつもの役回りだった。
「そうかなあ」亜美は再び窓の外に目をやった。「でも空、真っ黒だよ」
 奈保も外を見上げた。亜美の言う通りだった。あまりの暗さに早くも常夜灯が点いていた。オレンジ色の光が、なだらかな斜面になった芝生の中庭に浮かび上がっている。雨は、それを霞ませて、勢いは弱まる気配すら無い。
「しばらくここで時間潰すしかなさそうだね」
「いやいやいや、これはやみませんって」
 奈保の意見を亜美は受け付けなかった。開いたテキストのページを、シャーペンの先でトントンしながら続けた。「待つだけ時間の無駄だよ」
「そうかな」
「そうだよ。で、結局ぎりぎりで慌てて駆け込むことになる」
「うーん、まあ、そうならないとは言えないけど」
「いいや、なる、絶対。私って、こういう時、絶対そうなる運命なの」
 またそんな大袈裟な、と奈保は思ったが黙っていた。
「どうする、メイクの最終チェックもゆっくりできないんだよ?困るでしょ」
「そりゃ、まあ」
「最悪、遅れたらどうすんの?電車なんか、すぐ遅れるよ。舞衣に悪いじゃん」
「うん、悪い」
「向こうの男子にも悪いし。だいたい、印象悪いでしょ、だらしない女だなーって」
「はいはい、わかった、わかりました」
 我を通そうとする時に限って亜美は論理的だ。奈保は、つい意地悪を言ってやりたくなった。
「じゃあ、M駅まで強行突破する?」
「はあ?冗談。せっかくの服が台無しでしょ。絶対にイ・ヤ」
 予想通りムキになる亜美が、なんとも憎たらしくて、可愛い。奈保は思わず噴き出した。
「なに?なによ」
「ごめん、ごめん。なんでもない」
 奈保は素直に謝った。亜美はまだ睨んでいる。
 栗色のショートヘア、あどけなさを残す顔立ちの亜美は、普段はTシャツやジーンズのことが多く、ともすれば少年っぽく見えることもある。が、今日は違った。上はオフホワイトのノーカラーブラウス。胸元に小さなリボンがあしらわれている。下は膝丈のフレアスカート。レモンイエローが目に鮮やかだ。細い指先には、白くて小さな花びらが舞う、ネイルアートが施してある。
 この後予定されている合コンのためだった。二人の友人である舞衣が幹事の今回、相手はK大医学部の学生だった。
 三人ともイケメンだと舞衣は豪語していた。だから亜美も、これまでの合コンよりも気合を入れて臨んでいるのがわかった。
 奈保の方は、白いフリルTシャツにネイビーのプリーツスカートという組み合わせだった。ぱっと見は、いつもと変わり映えしない。亜美と同様、今回の合コンに抱く期待は小さくなかっただけに、本当はもう少し派手にしたかった。でも、できなかった。自身の顔の地味さを自覚している奈保は、着るものも日頃からおとなし目に抑えてしまいがちなのだった。
 と、亜美がシャーペンを鼻の下に挟んで頬杖をついた。上目使いで天井を見上げる。学食でスペシャルAランチにするか、日替わりヘルシー和定食を注文するかで悩んでいる時と同じくらい、真剣な顔。
 それが可笑しくて、奈保は笑いを含んだ声で尋ねた。「何かいい方法、ある?」
 亜美は、ぴくりとも動かない。
「ねえ」重ねて呼びかけると一瞬の間があって、亜美は急に振り向いた。テキストの上にシャーペンが落ちる。
「やっぱ行こう」
「え?」
「行こう、今すぐ」と言っているそばから、机の上に広げていたテキストやノートを片付け始めた。
 奈保は慌てた。「ちょっ、ちょっと。行こうって、どこへ?」
 手を止めて亜美が、不思議そうな目を向けた。「合コンに決まってんじゃん」
「はあ?今すぐって?」
「今すぐは、今すぐだよ。さ、早く」
 最後にペンケースを詰め込んだトートバッグを肩に掛け、亜美は立ち上がった。座席の後ろに回り、さっさと出口に向かう。
「ちょっと亜美。なんなのよ、もう」
 訳もわからないまま、奈保も机の上のものを急いでショルダーバッグにしまう。
 バタバタした気配に、前の席の男子が振り返った。ゲジゲジみたいな眉をしかめている。
「す、すみません」
 なんで私がペコペコ頭を下げなきゃなんないのよ、バカ!
 ゲジゲジ男と亜美の両方に内心で悪態をつきながら、奈保は席を立った。

                           <次回へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?