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幸福の傘

 
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「亜美、待ってよ!」
 廊下の先を早足で進んでいた亜美に、小走りで追いついた奈保は、並んで歩きながら訊いた。「どうしたの、急に」
「行くんだよ、駅まで」前を向いたまま、亜美はケロリと答える。
「行くって、この雨ん中?」
「そ」
「服、台無しになるんじゃないの?」
 私だってご免だ。こんな土砂降り、バッグを頭上にかざしたくらいじゃ何の足しにもならない。M駅までどころか、出た瞬間ずぶ濡れになるのは間違いなし。一応、お洒落してきてるんだから、私なりに。
 不意に亜美が立ち止まった。
「大丈夫。ほら」と言うと、正面玄関に向かって亜美は駆け出した。奈保も後を追った。
 入口の自動ドアの向こうに見えるタイル張りの通路には、屋根が付いているにも関わらず、雨が飛沫を上げている。
 問題を解決する何かが、ここにあるのだろうか。奈保は玄関を見回した。
右手の壁には、防災強化月間や海外ボランティア募集のポスター。左手の壁には、緑色の掲示板が掛かっていて、学生課からのお知らせや、いろいろなサークルのビラが貼ってある。
「ほら、やっぱりあった」と亜美が指差したのは、その掲示板の下に据え付けられている、黒いスチール製の傘立てだった。数本の傘が差してある。
「なんだ、置き傘してたんだ」
 亜美は首を振った。
「それなら最初っから、そう言ってるよ」笑いながら答える亜美の眉間に、うっすらと縦皺が寄った。馬鹿だな奈保は、とその表情が付け足していた。
 亜美は傘立てに近付くと、中を覗いてキョロキョロし始めた。「さーて、ど・れ・に・し・よ・う・か・な」右手の人差し指を顎に当て、そう口ずさんでいた。
「まさか、亜美」続く言葉を呑み込んで、奈保は後ろから見ていた。
 亜美が嬉しそうな声を上げた。「きーめた!これにしよっと」
 振り向きざまに掲げてみせた亜美の右手には、黄色い傘が握られていた。奈保は溜め息をついた。「亜美、それはさすがに」
「平気だよ、置きっ放しの傘じゃん」
 亜美はもうバンドをはずそうとしている。
「置きっ放しかどうかわかんないでしょ。今日持ってきてたんだったら」
「今日傘持ってきた人なんかいないって。見た?傘持って歩いてる人」
「そりゃ、見なかったけど」
「でしょ。ねえ、ほら、見て見て」
 亜美がボタンを押し、傘がパッと開いた。スカートと同じ、爽やかな黄色、なんという偶然のコーデ、などと感心している場合じゃない。
「放置してあるやつだったらいいってことにはならないと思うけど」
「いいの。ほったらかしにされたままじゃ、この子だって可哀そうでしょ?」
 亜美は、様々な角度に傘をかざしてみている。
「どうせ、あと五分もしてごらん。講義が終わって、みんなワッと出てきて、ここにある傘なんかあっという間に盗られちゃうんだから」
 それはそうかもしれない。だから早目に抜け出してきたのか。
「誰もがやってることなんだから。そんな気にすることないって」
「だけど」
「損だよ、自分だけ真面目やってると。私なんか、今までに何本パクられたことか」
 何本パクられたかは知らないけど、今持ってる傘が代わりになんてならないでしょ。
「ギブ・アンド・テイクだよ」
 言葉の使いどころを間違えてるよ。
 しかし、再び登場の理論派亜美は自信満々に見えた。論破した相手をいたわるかのように、微笑を口元に浮かべている。
 奈保もこのまま引き下がるわけにはいかない。「じゃあさ、せめてそれじゃなくて他のにしたら?そこのビニ傘とか」
 なんだ、それ?それじゃ亜美と一緒じゃん。ただ、別の傘を盗れって言ってるだけ。でも、そっちのなら少しは気が楽かも、だから。
「どれよ?これ?」
 黄色い傘を肩にかけ、亜美は奈保のいうものを抜き取った。埃で薄汚れたビニール傘は、いびつな形で固まっていた。開くとバリバリ音がしそうだった。たちまち亜美は顔をしかめた。「えー、やだー、こんなのー」
「でも、それなら絶対に放置してるやつだってわかるから」
「イヤ。こんなゴミみたいなの」
 亜美はビニール傘を元の位置に、投げるように突っ込むと、「やっぱ、これしかないでしょ」と、黄色い傘を持つ手を頬の横に並べ、両方の口角をキュッと上げてみせたが、すぐに教室の方に目をやり、
「ほら、もうすぐ講義終わっちゃうよ。行こ」と、自動ドアの前に立った。ドアが開き、雨が地面を叩く音が玄関に響いた。
 奈保は動かなかった。
 亜美が呆れたように笑った。肩にかけた傘をクルクル回しながら「ほんっとにお人好しだよね、奈保は」
「だって」
「わかったわかった。じゃあ、借りるってことでどう?」
「借りる?」
「そ。今日一日だけ借りて、明日また、ここに戻す。それならいいでしょ?」
 まるで自分が聞き分けのない子供で、それを包容力のある大人の亜美があやしているような今の構図が、奈保には納得いかなかったが、面倒くさくもなってきた。亜美の妥協案を受け入れてしまおうか。
 決意しかけた奈保の中で、敗色濃厚な良心が叫びを上げた。返すとか返さないとかじゃなくて、少なくとも今やろうとしてることは間違いなく泥棒だよ!
 それを支えに、奈保はもう一度説得を試みた。
「やっぱり、コンビニで買ってかない?」つい、機嫌を取るような口調になってしまう。
「無理無理。あそこに行くまでにずぶ濡れだよ」
 奈保の言葉を撥ねつけた亜美の笑顔から、柔らかさが失われつつあった。
 これ以上粘る勇気は奈保にはなかった。逆に自分自身を説得しにかかった。亜美も折れてきてるんだから、ここは引こう。あの傘だって本当に放置してあったのかも知れない、いや、放置してあったんだ。綺麗過ぎるのが気になるけど、今日置かれたんじゃないとは思う。あんなに晴れてたんだから。前に降った日に持ってきて、忘れていったんだろう。忘れる方が悪い。それに盗ろうとは言ってない。借りるだけ。明日には絶対返す。
「奈保」と、亜美が急かした。
 奈保は溜め息混じりに答えた。「借りるだけだからね」
「よし、決まり。明日必ず持ってくるから」
 屈託のない笑顔に戻った亜美は傘を持ち上げ、手招きした。「さ、入って入って」
 奈保は駆け寄った。
「さあ、行くよー」
 亜美の掛け声と共に、二人は外へ飛び出した。

                           <次回へ続く

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