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幸福の傘


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 通りの両側に並ぶ店は、みんな閉まっている。時刻は午前零時前だった。
 H駅近くの、この古い商店街にコンビニやファミレスは無く、夜の九時を回れば、開いている店は無くなってしまう。
 街灯の光を反射する、まだ濡れたその通りを、奈保と亜美は歩いていた。
「あー、楽しかったー」
 突然、亜美が大声を上げた。
「しーっ!」
 奈保は慌てて人差し指を鼻の前に立て、亜美を睨んだ。が、亜美に悪びれる様子は微塵もない。ペロッと舌を出すと、
「商店街の皆さん、ごめんなさーい」
 ふざけた調子で謝った。声のボリュームを落とした分だけは反省しているようだった。
 奈保は苦笑した。ま、はしゃぐのも無理ないか。今日の合コンでの主役は、間違いなく亜美だったのだから。最初の洋風居酒屋でも。二次会のカラオケでも。医大生達の関心は常に、間違いなく亜美に集中していた。悔しいけど。
 カラオケの後、向こうからもう一軒誘われた。亜美と舞衣は乗り気だったが、奈保は頑なに拒んだ。酒はそれほど強くない。少し気持ち悪かった。翌日動けなくなる心配もあった。それに、これ以上亜美の引き立て役にまわるのもつまらないという思いが僅かながらあったのも事実だった。二人で行ってきたらと言った。舞衣はなおも粘ったが、亜美はわりとあっさり、じゃあ私も帰ると言った。水を差されて気を悪くしたかな、と奈保は思った。
 帰りの電車の中、果たして亜美は不満を口にした。相手に悪いとか、幹事の舞衣がかわいそうだとか、もしかして私だけがモテるのが面白くなかったんじゃないの、と核心を突く疑問まで口にした。
 しかし、途中から奈保の肩に頭を預け、口を開けたまま熟睡し、電車を降りた時には、亜美の機嫌は直っていた。すぐ怒る、我儘、でも、しつこくない。そういうところが好きだな、と奈保は今あらためて思う。なんだかんだ言っても結局、私に付き合ってくれたんだし。口元が自然とほころんだ。
「これ、私のラッキーアイテムかも」
 後ろからの声に奈保は立ち止まった。振り向くと、少し離れて亜美が黄色い傘の柄に頬ずりしていた。
「何やってんの?」
 亜美が真面目な顔で聞き返してきた。「私さー、今日、一番モテてたじゃない?」
 なにそれ?亜美のこういうところも面白くていいんだけど。まだ酔ってるのか。奈保は一つゆっくり息を吸ってから答えた。「うん、そうだね」
 亜美は傘を胸に抱くと急に近付いてきた。表情がデレっと崩れた。酒臭い。
「ねえ、今日の私、モテモテだったよね?」
「はいはい」
「今までにないくらい、モテまくってたよね?」
「まくってた、まくってた」
「なあにー、その言い方。もしかして奈保、妬いてる?」
 亜美の肩が奈保の肩を小突いた。
「そんなことないよ」
「ホントにー?」
 亜美が小首を傾げる。不安げな表情。わざとらしい。
「ホントだってば」面倒くさい。が、奈保は精一杯優しい声で言った。「それより、早く帰ろ」
 再び歩き始めて間もなく、亜美が両手に握った傘を前に突き出した。
「この子のおかげだよ」
「え、何?」
「今日の大成功は、この子と出会ったからなんだよ、きっと。最初に持った時から感じてたんだよね、なんかこう、手にピタッとくるっていうか、普通の傘とは違うなって」
 さっきの頬ずりは、そういう気持ちの表れだったのか。奈保は理解した。そして呆れた。でも、まあ酔っ払ってるなら仕方ないか。バカバカしいとは思いながら、奈保も調子を合わせてやった。
「幸せの黄色い傘だね」
「お、奈保、ナイスネーミング!」
 亜美の弾んだ声に、奈保もつられて笑った。が、ハッと思い付き、
「亜美、駄目だからね」
「えー!」
 奈保の言わんとすることを察したらしい。亜美が駄々をこね始めたので、歩きながらの言い合いになった。
「だって捨てられてたんだよ」
「そんなのわかんないでしょ」
「絶対そうだよ」
「わかんないよ。ただの忘れ物だったらどうするの?持ち主が取りに来た時、困るじゃない」
「考え過ぎだよ。置き去りにされてたんだって、この子は。奈保もあの時納得したじゃない」
 納得などしていない。亜美は話を作っている。それとも勘違いしているだけなのか。どちらにしても、ここは譲れない。奈保は足を止めた。
「駄目なものは駄目!」
 思いのほか強い口調になった。亜美も立ち止まり、奈保を見つめた。明らかに怯んでいる。一転して奈保は静かに言った。「約束したでしょ、借りるだけだって」
 亜美はそっぽを向いた。傘の先で地面をカツカツと突いている。
「明日、ちゃんと返すんだよ。いい?」
 亜美は答えない。奈保は念を押した。
「いい?わかった?」
「わかったよ、もう」
 唇を尖らせてはいたが、ようやく亜美は呟き、
「あーあ、もっと一緒にいたかったのにな」と大声で残念がってみせた。その口を奈保は手で塞ごうとした。逃れて亜美は走り出し、五、六歩行ったところで止まると同時に傘を開いて、くるりと向き直った。
「ねえ、奈保もさしてみる?幸せの黄色い傘」柄を肩より高く持ち上げる。「ご利益あるかもよ」
 奈保は取り合うつもりもなかったが、亜美は歩み寄り、傘を差し出した。
「ほら」
 子供みたいな笑顔だった。これにはかなわなかった。ふざけてみようか、ちょっとだけ。
 奈保は咳払いをしてから両手をそろそろと伸ばした。傘を受け取ると肩にかけ、亜美にぎこちなく微笑んだ。「どう?」
「似合う、似合う」はしゃいだ亜美は更にリクエストする。「はい、その場でターン」
 一瞬迷った後、奈保は傘を軸にしたように、もたもたと一回りした。笑いたいのか泣きたいのかわからない顔になっているのが自分でもわかった。
「いい、すごくいいよ」と亜美は手を叩いて笑ったが、すぐ真顔になって付け加えた。
「でも明日、返さなきゃ駄目だぞ」
「亜美ィ!」
 奈保は傘を振り上げ、叩く真似をした。亜美はキャーッと叫んで逃げ出した。

 商店街の突き当りは片側二車線の大通り。昼間は結構な交通量だが、この時間ともなれば、それもまばらだった。ここで奈保は左に、亜美は右へと別れる。
「大丈夫?亜美んちまで一緒に行こうか?」
「平気、平気。心配ご無用」
 二人のアパートは、どちらもそこから近く、大通りからも離れていない。途中に暗い場所はほとんどなかった。だから奈保が心配したのは主に亜美の酔っ払い具合だった。が、ヒールを履いたまま走れるぐらいだから、確かに心配はなさそうだった。
「そんじゃ、また明日ね」
 亜美が手を振った。
「うん、また明日。二限の倫理、遅れないでよ」
「了解!」
 敬礼のポーズを取る亜美に、奈保は手を振った。

                           <次回へ続く


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