幸福の傘
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アパートを囲むブロック塀の入口を入った直後、奈保は平衡感覚を失った。二、三歩斜めによろめき、塀の内側にぶつかって、その場にしゃがみこんだ。暫くは動けず、足元の土と、自身の汗のにおいをかいでいた。今頃になって酒が足にまで回ってきたようだ。たいして飲んでもいないのに。亜美は無事に着いたかな。ちらりと心配したが、確かめるのは後回しにした。バッグからスマホを取り出すのも億劫だったからだ。
耳元で蚊の羽音がした。奈保は立ち上がった。軽く目が回った。帰り際の気持ち悪さがぶり返しそうだった。大きく深呼吸を繰り返してから外階段に足をかけた。
二階の角部屋のドアを開けると、こもっていた熱が顔を舐めた。中は、流しの上の窓から入る外の光に、うっすらと照らされている。奈保は玄関の電気も点けず、サンダルを脱ぎ捨てると、上がってすぐのキッチンをのろのろ進み、居間との間のガラス戸を引き開けた。中に入り、壁を手探りして蛍光灯のスイッチを押した。
暑い。肩紐をはずし、バッグをどさりと落とした。奈保はガラステーブルの脇のクッションソファに、うつ伏せに倒れ込んだ。
こめかみで打つ脈の音が聞こえる。汗が全身から滲み出る。アルコールくさい。眠気が襲ってきた。
ハッとして、奈保はソファに両手をついて体を起こした。シャワーを浴びないと。でも、その前に水を。
テーブルに置いてあったリモコンでエアコンを作動させると、今度はテーブルに両手をついて立ち上がり、キッチンへ向かった。
水切り籠からグラスを取り、蛇口から水を注いで一気に飲み干した。喉の渇きは少し癒やされた。もう一杯注ぎ、グラスを持って居間へ戻った。これを飲んだら着替えやタオルを取りに隣の部屋へ行くつもりだった。
奈保はソファに腰を下ろした。水を一口飲み、グラスをテーブルに置いた。エアコンのと並べてあったリモコンに手を伸ばし、テレビをつけた。見たいものがあるわけではなかった。画面ではニュースキャスターが、こんばんはと挨拶したところだった。
エアコンから降りてくる冷気が頬に心地いい。瞼が重くなってきた。ダメダメと抗いつつ、でもちょっとだけならと自分を許し、奈保はソファに再び倒れた。そのまま、すうっと眠りに落ちそうになった時だった。
『殺害されたのは、S大学一年生、ニノミヤセイカさん』
キャスターの声を、失われていく意識が捉えた。
うちの学生だ。
頭だけをもたげ、薄目を開けて画面を見た。
『……○○市××町のコンビニエンスストアの前で……』
あ、このコンビニ、大学の近くの。
『……タイホ……サカシタトモハルヨウギシャ……』
ニュースが切れ切れに、奈保の耳に届く。
『……ホウチョウ……ムネヤハラ……ケイサツデハ……』
奈保の頭が落ちた。ここまでが限界だった。奈保は意識を失った。
<次回へ続く>
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