3 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き①)、1(続き②)、2へ> <3-1、1(続き①)、1(続き②)へ><前回へ> 1(続き) 「ねえ、亜美はどうしちゃったの?大丈夫なの、亜美は?」 耳に氷を押し当てられた気がした。舞衣の声は、いつもより低いばかりではない。不安とか恐れとか怯えといった暗い感情を孕んでいた。今ここで決して聞きたくはない声だった。 それでも舞衣には、もっと詳しく事情を説明してもらう必要がある。奈保は訊こうとした。しかし声が出てこない。玄関の亜美に聞
3 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き①)、1(続き②)、2へ> <3-1、1(続き①)へ><前回へ> 1(続き) 奈保は亜美の言ったことを理解するのに少し時間がかかった。そして理解はできたが受け入れることはできず、「うそ」と呟いた。 ちょっと眉をしかめながらも、亜美は笑って応じた。 「ホントだってば」 「どこで」と奈保が訊くと、 「五号館の玄関。奈保と一緒に、あの傘を拝借した場所。私、返しに行ったんだよ。そしたら――」 奈保が遮って言った。 「二宮、さんがいた
3 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き①)、1(続き②)へ> <2-2><3-1><前回へ> 1(続き) 二本の腕がスッと消えてなくなった。掴んでいたレバーが下に動いた。何がどうなっているのかわからないまま、押してみるとドアが開いた。 すぐそこに亜美が立っていた。死んだはずの亜美が。目も口も開けたまま、ひどい格好で転がっていた亜美が、今は昨日と同じ、白いブラウスにレモンイエローのスカートを身に着け、こちらを見て立っている。口元に汚れもない。ただ、心配そうな表情をし
3 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き①)、1(続き②)へ> <2-2><前回へ> 1(続き) まさか、そんな偶然って。 下駄箱の脇の黄色い傘を取り上げて開くと探し始めた。これが二宮聖香のものだという証拠を。角度を様々に変えながら、上からも下からも見ていく。 とはいえ、この行為が間違いなく徒労に終わることは奈保にもわかっていた。最もはっきりした証拠は名前だ。が、まずないだろう。子供じゃあるまいし、傘に名前なんか書く大学生はいない。万が一、名前の代わりに、自分にし
3 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き①)、1(続き②)へ> <前回へ> 1 大通りを一本入った一画の、小さな児童公園の隣に亜美のアパートはある。全部で六部屋の、小ぢんまりとした二階建てだ。まだ新しく、晴れた日には緑の屋根と白い壁がまぶしい。 しかし今、タクシーの窓から公園の滑り台越しに見るアパートは、街灯の光に照らされてはいるものの、闇の色が滲んだみたいに煤けて見えた。 それでも奈保は、ひとまずホッとした。パトカーが停まってもいないし、野次馬が群れてもいない。
2 <1-1、2、3、4へ><2-1、1(続き)へ><前回へ> 2 バイト先のファミレスには、その日、多くの客が訪れた。春先に奈保が週三回働き始めてから、最も忙しい一日となった。ホールスタッフに混ざり、テーブルの間を動き回っていた店長も、厨房に料理を取りに来て奈保とすれ違う時、嬉しさと困惑の入り混じった顔で「こんなのは、なかなかないよ」と言った。 最初のうち、忙しく働きながらも、奈保には充実感を覚える余裕があった。××君の件が大きく作用していた。片付けた後のテーブルを拭き
2 <1-1、2、3、4へ><2-1へ><前回へ> 1(続き) 三号館を出たあたりで、尻のスマホが震えた。画面を見ると舞衣からだった。日頃、スマホでのやりとりのほとんどがLINEの舞衣が、電話とは珍しい。どうしたんだろう?直前までの気分を引きずっていたせいで、余計に厭な予感にかられながら電話に出た。途端に、いつもよりトーンの高い舞衣の声が、耳に飛び込んできた。奈保は思わず足を止めた。 「やったね、奈保!ねえ、どうする?」 「え、何?ちょっと待って。どうするって、何が?」 「
2 <1-1、2、3、4へ><前回へ> 1(続き) 画面中央に、マイクを持った眼鏡の男性がいる。右上には「中継 〇〇警察署前」のテロップがあった。 奈保は少し驚いた。意外にも近くからの中継だったからだ。〇〇警察署は大学とは駅の反対側にあるが、歩いてもおそらく十五分くらいで着くはずだった。何があったんだろう?どうしてみんな集まってるの? 前にいる男の頭が動いたのに合わせて、奈保も立ち位置をずらした。その時、思い出した。眠りに落ちる前に聞いたニュース。あれで確か、うちの学生
2 <1-1、2、3へ><前回へ> 1 三号館三百一番教室の一番後ろのドアに、息を切らして奈保が辿り着くのと、一番前のドアを倫理学の教授が開けるのとは、ほぼ同時だった。途中のほとんどを走ったかいがあったと、ほっとしながら奈保はドア近くの席にへたり込んだ。室内は空調が効いているが、汗はすぐには止まらない。 およそ一時間前、奈保は身震いして目覚めた。エアコンもテレビもつけっ放しだった。半開きの目を向けた画面にはテレビショッピングの番組が流れていて、片隅に時刻が表示されていた
1 <1-1へ><1-2へ><前回へ> 4 アパートを囲むブロック塀の入口を入った直後、奈保は平衡感覚を失った。二、三歩斜めによろめき、塀の内側にぶつかって、その場にしゃがみこんだ。暫くは動けず、足元の土と、自身の汗のにおいをかいでいた。今頃になって酒が足にまで回ってきたようだ。たいして飲んでもいないのに。亜美は無事に着いたかな。ちらりと心配したが、確かめるのは後回しにした。バッグからスマホを取り出すのも億劫だったからだ。 耳元で蚊の羽音がした。奈保は立ち上がった。軽く目
1 <1-1へ><前回へ> 3 通りの両側に並ぶ店は、みんな閉まっている。時刻は午前零時前だった。 H駅近くの、この古い商店街にコンビニやファミレスは無く、夜の九時を回れば、開いている店は無くなってしまう。 街灯の光を反射する、まだ濡れたその通りを、奈保と亜美は歩いていた。 「あー、楽しかったー」 突然、亜美が大声を上げた。 「しーっ!」 奈保は慌てて人差し指を鼻の前に立て、亜美を睨んだ。が、亜美に悪びれる様子は微塵もない。ペロッと舌を出すと、 「商店街の皆さん、ご
1 <前回へ> 2 「亜美、待ってよ!」 廊下の先を早足で進んでいた亜美に、小走りで追いついた奈保は、並んで歩きながら訊いた。「どうしたの、急に」 「行くんだよ、駅まで」前を向いたまま、亜美はケロリと答える。 「行くって、この雨ん中?」 「そ」 「服、台無しになるんじゃないの?」 私だってご免だ。こんな土砂降り、バッグを頭上にかざしたくらいじゃ何の足しにもならない。M駅までどころか、出た瞬間ずぶ濡れになるのは間違いなし。一応、お洒落してきてるんだから、私なりに。 不
1 1 黒灰色の雲が急速に空を埋める。あたりは怖いほど暗くなった。 ぽつ、ぽつ、と大きな雨粒が落ちてきたかと思うと、一気に土砂降りになった。 三百人は入れるS大学五号館の五百二十五番教室では、四限目、社会学概論の講義が終わろうとしていた。 「うわっ、すごいね」 教壇側から徐々にせり上がっていく座席の列。その一番後ろの窓際で、波多野亜美が外を眺めたまま呟いた。 「ちょっとぉ。今日、降るって言ってた?」振り向いた亜美は、ふくれっ面だった。 隣の川島奈保は、そんな文句
腐ってもいいよ。 ただし、発酵すること。