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幸福の傘


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1(続き)
 奈保は亜美の言ったことを理解するのに少し時間がかかった。そして理解はできたが受け入れることはできず、「うそ」と呟いた。
 ちょっと眉をしかめながらも、亜美は笑って応じた。
「ホントだってば」
「どこで」と奈保が訊くと、
「五号館の玄関。奈保と一緒に、あの傘を拝借した場所。私、返しに行ったんだよ。そしたら――」
 奈保が遮って言った。
「二宮、さんがいた?二宮さんに返したの?」
「まさか。だって彼女は昨日には亡くなってたんでしょ。私は今日、返したんだよ」
「本当に二宮さんじゃなかった?顔、知ってるでしょ?ニュースに出てたから」
「それが知らないの。今までの私の話し方聞いてたらわかるでしょ。テレビもネットも見てなくて。二日酔いがひどかったし」
 その一言に奈保は食いついた。
「そうだよ、昨日講義の後で電話した時、今日はもうずっと寝てるみたいなこと言ってたよね。それがどうして急に返しに行ったりしたの?」
 亜美はうーんと考える仕草をした後、
「なんていうか、それこそ良心の呵責っていうヤツ?ま、私の場合は傘の持ち主にっていうのもあるけど、それより奈保と約束したからっていう気持ち?奈保の声を聞いたら、そういうのが、こう、強くなってきちゃって。これはもう返しに行くしかないかってなっちゃったわけ」
 亜美の思いがけない殊勝な言葉に、奈保は口ごもった。亜美は話を続けた。
「あ、でも、二宮さんじゃないけど、持ち主はやっぱり女の子だった。名前は聞くの忘れちゃったけど、ショートカットで綺麗な子だったよ。昨日は盗られたって諦めたんだけど、念のため今日、もう一度見に来たんだって。丁度いいタイミングだったんだよ。私が行った時には、その子、傘立てのところでキョロキョロしてて、私が持ってた傘にすぐ気付いて、あっ、て指差したんだから。それで私も、あ、傘の持ち主だってわかって、何遍も頭下げて、奈保の分まで謝って返したの。そしたら、その子、もういいですよって笑って許してくれて。いい子でよかったよ」
「そう」と奈保は力なく言った。自分が見たあれは幻覚だったと、もうそれでいいじゃないかと、ほとんど諦めた。ただ最後に一つだけ、確かめておきたかった。結果はわかっていたが。
 奈保は立ち上がり、玄関に行った。下駄箱の脇。ここに来た時は、そこに黄色い傘が立てかけてあったはずだ。最初につけたはずの電気が消えていたので、またスイッチを押した。
 傘は無かった。思った通りだった。下駄箱の扉を開けて中も見た。あるはずもなかった。
 と、奈保は、いやここじゃないと思い出した。自分が居間に持って入ったんだ。そして逃げる途中で、どこかに払いのけた。
 奈保は居間に戻り、床のあちこちに目をやった。傘はどこにも見当たらなかった。亜美は今や憐みの色さえ感じられる目で、こちらを見ている。疲労が一時に肩にのしかかってきた。
「私、帰る」
 奈保はポツリと亜美に告げ、バッグを拾い上げた。
「そうだね。とりあえず今日は、そうした方がいいね」
 そう言うと亜美も立ち上がった。
 一人で大丈夫だと言う奈保に、亜美は心配だから送って行くと言ってきかなかった。
 玄関で、奈保は尻のポケットにスマホが入ってないのに気付いた。下駄箱の中から履いていくものを選んでいる亜美の背中に、
「ちょっと待ってて」
と声をかけ、居間に引き返した。なにげない行動だった。スマホを落としたのなら、直前までいた居間だろうと、自然に思っただけだ。が、キッチンを抜けていく僅かな間に思った。そういえば、テーブルの上に置いた。亜美に最後に電話した後だった。それから押入れを開けに行った。
 でも、それらも幻覚だったのだと、居間の消したばかりの灯りを再びつけた瞬間、あらためて思い知った。
 テーブルの上にはテレビのリモコンが置いてあるだけだった。さっきテレビをつけたり消したりした時に見ていたはずなのに。まだ幻覚を現実だと錯覚していたから気付かなかった。考えてみれば、倒してしまったグラスも、こぼれた水もない。あるわけがない。全て、自分が創造した幻だったのだから。
 一応、テーブルの周囲も確認してから、奈保はバッグの中を覗いた。あった。タクシーから降りる間際にしまった、ような気がする。
 フッと息を小さく吐いて、奈保はスマホを手に取ると、まず裏側の面に顔を寄せ、よく見た。次に、指先で撫でてみた。斜めに傾け、蛍光灯にかざしてみたりもした。あのこぼれた水に濡れるとしたら、こちら側だと思ったからだ。我ながら往生際が悪いとは思いながらも、そうせずにはいられなかった。
 一粒の水滴も付いていなかった。今度こそ本当に諦めがついた。奈保はスマホを裏返し、ついいつものようにホーム画面を開いた。LINEのメッセージが来ているのがわかった。LINEの画面を開いてみると、舞衣からだった。
「亜美が突然うちに来て、たった今帰ったんだけど。なにか様子が変だったよ。奈保、亜美と何かあった?」
 送信時間を見ると、午後十一時三分。スマホの今の時刻表示から考えると、およそ四十分前だ。四十分前といえば、と奈保は思った。私が意識を取り戻した頃?亜美が私の顔を覗き込んでいた。舞衣のところから「たった今帰った」ばかりの亜美が、その時にはもうここにいた。舞衣の部屋からここまで、電車を使っても三十分以上はかかる。それなのに、どういうこと?
「奈保、何やってんの?」
 玄関から亜美の声が聞こえた。奈保の肩が跳ね上がった。
「ああ、うん、スマホをちょっとね」と、しどろもどろに答えて、奈保は画面を急いで閉じると、スマホを尻のポケットに突っ込んだ。
 電気を消して玄関に戻る間、奈保の足は宙を踏んでいるようだった。吐き気を催した。既に靴を履き終えて立って待っていた亜美に、
「ごめん、洗面所借りていい?」と訊いた。
「いいけど、大丈夫?顔色悪いよ」と亜美は心配そうに言った。
「うん、平気」と答えて、奈保は右手の奥にある洗面所に向かった。
 蛍光灯の下の鏡に映る自分の顔は、紙のように白かった。奈保は蛇口をひねった。顔を洗うつもりだったが、それも忘れて、水が流れる音を聞いていた。舞衣のメッセージだけが頭にあった。もう一度LINEを見ようとポケットに手を伸ばした時、スマホが音を立てて振動した。ビクッと手を引っ込めたが、すぐにスマホを取り出した。舞衣からの電話だった。奈保は水を止め、洗面所の向かい側にあるトイレに入って鍵をかけてから、スマホを耳に当てた。
                           <次回へ続く>

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