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幸福の傘


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1(続き)
 画面中央に、マイクを持った眼鏡の男性がいる。右上には「中継 〇〇警察署前」のテロップがあった。
 奈保は少し驚いた。意外にも近くからの中継だったからだ。〇〇警察署は大学とは駅の反対側にあるが、歩いてもおそらく十五分くらいで着くはずだった。何があったんだろう?どうしてみんな集まってるの?
 前にいる男の頭が動いたのに合わせて、奈保も立ち位置をずらした。その時、思い出した。眠りに落ちる前に聞いたニュース。あれで確か、うちの学生が殺害されたとかなんとか言っていた。あれか。
「それで吉田さん、事件の詳細については、どの程度わかっているんでしょうか」
 問いかける声はスタジオからだ。奈保も知っている昼の情報番組で司会を務める男性タレントのものだった。
 記者であろう吉田と呼ばれた画面の男性が答える。
「はい、坂下智春容疑者は逮捕直後は動揺が激しく、口もきけない状態でしたが、今日は平静を取り戻しており、非常に冷静に取り調べに応じているということです」
 やや早口で、吉田記者の緊張がはっきりと伝わった。
「そこで、まずわかったのは、殺害された二宮聖香さんと坂下容疑者とは、一度も面識がなかったということです」
「ひどい」
 見物人の中から、女の震える声が漏れた。
「そして、今回の事件の背景には、ひと月前、坂下容疑者がそれまで交際していた女性から、別れ話を持ち出されたことがあったようです」
 映像が切り替わる。
 群がる報道陣の中を、ゆっくりと進むパトカー。間断無く焚かれるカメラのフラッシュが車内を照らし出す。後部座席で関係者に挟まれ、ジャンパーのようなものを頭からすっぽり被っている犯人。
 吉田記者の声が重なる。
「一方的に別れを告げられ、それでも諦めきれなかった容疑者は、昨日の午後四時から四時半までの間に、同じ町内にある、その女性宅を訪ねました」
 今度は、事件後間もない現場の録画。何人もの鑑識官が立ち働いている。そこは奈保もよく知る、大学近くのコンビニの駐車場だった。昨日も行こうと思った。亜美と一緒に。傘を買いに。
 やっぱり、コンビニで買ってかない?――自身の言葉が耳に甦った時、奈保は背中を何者かに、冷たい手で撫でられたように感じた。もしも昨日、あれからこのコンビニに寄っていたら。
「犯行に使われた包丁は、その時から持っていたんでしょうか?」スタジオからの質問。
 再び吉田記者の姿が現れる。
「はい、そうです」
「すると最初から、元の交際相手に危害を加えるつもりだったということですか?」
「その点については、坂下容疑者は否定していまして、一人では不安だから、精神安定剤のつもりで持って行ったと供述しているようです」
「ホントかよ」という男の声が聞こえた。
「一旦は元交際相手の家に向かった容疑者が、何故、事件現場となったコンビニの前で、今回の犯行に及んだのでしょうか?」
「はい、それにつきましても、既に坂下容疑者は話しておりまして」
 記者は、そこでメモに目を落とす。
「訪ねた時、女性は留守で、帰るまでどこかで時間を潰そうと考えた坂下容疑者は、特にあてもなく、M駅方向に向かって歩き始めました。その途中で事件現場となったコンビニエンスストアにさしかかり、二宮さんと遭遇しました」
 ワッと泣き声が上がった。女子学生が二人、くずおれそうになる一人の肩を、もう一人が抱いて人だかりから離れていった。近くのソファに座り、支えていた方が、両手で顔を覆って泣き続ける方の背中をさすっている。
「当時○○市一帯は、猛烈な雨に見舞われており、びしょ濡れでコンビニの屋根の下に立っていた二宮さんに、坂下容疑者は、自分の差していた傘に入らないかと声をかけました」
「坂下容疑者は、傘を持っていたんですね?」
「はい。急な雨だったんですが、天気予報では、夕方から降るかも知れないようなことを言っていたので持って出たそうです」
 私より几帳面だな、と奈保は変に感心してしまった。
「しかし、何故、見ず知らずの二宮さんに声をかけたんでしょう?普通、自分が傘を持っていたからといって、入っていきますかなどと誘う人は、あまりいないと思うんですが」
「その理由については、坂下容疑者もよくわからないと言っているようです。見知らぬ女性に声をかけたことなど、これまで一度もなかったそうです」
 運が悪かったんだ、二宮さんは。奈保は思った。結局は、その一言につきるんじゃないか。
「坂下容疑者の申し出を二宮さんは断り、しばらく押し問答があった後、二宮さんは店に入り、ビニール傘を購入すると、それを差して立ち去ろうとしました。その態度にカッとなった坂下容疑者は、持っていた包丁で二宮さんの後ろから」
 ギャーッと絶叫が響き渡った。ソファで泣いていた女子学生だった。
「聖香!聖香!」
 両耳を塞いで、名前を呼び続ける。もう一人が「行こ、ね」と立たせようとする。画面では吉田記者のレポートが続いている。
「坂下容疑者は二宮さんに馬乗りになり、胸や腹など二十数か所をメッタ刺しに」
「おい、もうテレビ消せよ!」
 男の怒鳴り声が上がった。人混みが散り始めた。奈保もそこから離れた。
 腕時計を見ると、時間にあまり余裕がないことがわかった。奈保は足取りを速めたが、といってそれほど強い焦りを感じていたわけではない。自分と亜美の二人と、二宮聖香の運命の明暗について、思考の大半が奪われていた。
 私と亜美は運が良かった。
 あれが無ければ、あのコンビニに行って。
 あそこに行かなかったとしても、びしょ濡れになって、どこかで雨宿りして。
 犯人と出くわして、包丁で何回も刺されて。
 もしかしたら二宮さんじゃなく、私達が。
 腹の底がゾクリとした。気付けば鼓動が速くなっていた。食欲は更に失われていた。
                           <次回へ続く


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