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幸福の傘


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1(続き)
 三号館を出たあたりで、尻のスマホが震えた。画面を見ると舞衣からだった。日頃、スマホでのやりとりのほとんどがLINEの舞衣が、電話とは珍しい。どうしたんだろう?直前までの気分を引きずっていたせいで、余計に厭な予感にかられながら電話に出た。途端に、いつもよりトーンの高い舞衣の声が、耳に飛び込んできた。奈保は思わず足を止めた。
「やったね、奈保!ねえ、どうする?」
「え、何?ちょっと待って。どうするって、何が?」
「だからー」と舞衣は焦れたように、
「昨日の合コンだよ。××君っていたでしょ?ほら、髪の毛サラサラの、アイドル系の。その××君が奈保とLINEの交換したいんだって。さっき向こうの幹事から連絡もらってさ。奈保達、さっさと帰っちゃったから言えなかったんだって」
 あー、と奈保は××君の顔を、すぐに思い出した。最初の店で一緒にトイレに立った際、鏡の前で化粧を直しながら、亜美が今日イチだねと絶賛していた。それもあり、また、そもそも自分が指名されるとは夢にも思っていなかった奈保は、つい訊いてしまった。
「亜美、じゃなくて?」
「亜美じゃなくて」
「ウソ、ホントに?」
「疑り深いな、もう。まさか奈保だなんて、まあ最初は私も信じられなかったけど。でもホントだよ」
 失礼なことをズケズケ口にするが、言われた相手は不思議と腹が立たない。逆に小気味よく感じることさえある。それが舞衣のなせる業だ。
「なんだか嬉しくなってさ。どうしても口で直接伝えたくて、でも私、今日の講義、そっちのキャンパスじゃないから」
 せめて電話でと思って、と舞衣は言った。まだ声が上ずっていた。
 そんなに凄いことなのかと思うと、我ながらさすがに哀しい気もする。だが、確かに合コンでも、普段のどんな場面でも、奈保の存在は亜美や舞衣や他の友人達の間に埋もれていた。自ら望んでそうなるようにしていた場合も多かった。もちろん、これまで誰かと付き合った経験はなかった。告白したことも、されたことも。だからきっと凄いことなんだと、奈保は納得した。
 ただ、実感はない。そこで奈保はあらためて舞衣に尋ねた。
「ねえ、何かの間違いじゃないのかな」
「いい加減にして、奈保」ピシャリと舞衣が返した。
「間違いじゃないし、嘘でもない。事実なんだってば。もう、せっかくの私のいい気分、ぶち壊さないでよね」
 なんだか変だとも思えるが、舞衣のためならと考えると、素直に受け入れられそうだった。
「あ、それと」
 急に舞衣の声が、いつも通りに低くなった。
「このことは亜美には内緒にしといた方がいいよ」
「え、なんで?」
「だってあの子、昨日みんなから結構チヤホヤされてたから、自信満々だったと思うんだよね」
「うん。がっかりするだろうね。誰からも声がかからなかったってわかったら」
「ていうかさ、怒ると思う、奈保にだけ声がかかったって知ったら。許せないと思う」
「え」
「理性では誤魔化せても、感情としてはね。許せないんじゃないかな、絶対に」
 そうだろうか。多少は悔しがるだろうが、それだけで終わるんじゃないか。すぐに笑いながら、今度会わせなさいよとか言ってくるんじゃないだろうか。
 奈保が答えられないでいると、舞衣が、
「とりあえず黙っとくこと。いいね?それが二人のためだよ。私も言わないから」と言い、で、××君への返事はどうすると訊いてきた。
 ひとまず保留にしといて、と奈保が頼むと、わかった、とにかくよかったね、と舞衣が最後は明るく言って電話は終わった。奈保はスマホをポケットにしまうと、ゆっくり歩き出した。舞衣の言ったことを考えていた。
 合コンの後、亜美の方から相手にアプローチしたことは、今までない。気に入る相手がいなかったわけではない。今回の××君のように、いいと思う相手はいた。でも亜美は何故か、自分はアプローチする方ではなく、される方だと信じているようだった。それで相手から何の反応も得られないと、負け惜しみを言った。相手をけなした。しかし、それらは二言三言程度で、それだけ吐き出してしまえば、あとはサッパリしたものだった。
 それは、私も同じ立場にいたからだろうか。もしも私だけが一段上に昇ったら、絶対に許せないほど怒るだろうか。あの亜美が。
 舞衣は確信しているみたいだった。なら、そうなのだろう。彼女は滅多に間違わない。
 負けるはずのない人間に負けたのだ。プライドは激しく傷付くだろう。その人間を憎んでもおかしくない。いや、憎んで当然だろう。亜美でも。亜美だからこそ。
 奈保は、亜美に秘密を持つことを、そこで本当に決めた。うしろめたさと、それよりも大きな快感とで、体のどこかがむず痒くなった。
 ××君への返事はどうしようと考え始めた時、舞衣からの電話の前に考えていたことを思い出し、奈保はあっと声を上げそうになった。
 あれのおかげなんじゃないか。
 命を救ってくれたのもあれなら、××君から申し込まれたのも、亜美に秘密を持てたのも、あれを手に入れたから――。
 奈保は足の運びを次第に速めながら思った。
 あれはまさに幸せの黄色い傘だ!亜美にはああ言ったけど、返さない方がいいのかも。
 そして次には、学食ではスペシャルAランチと日替わり和定食、どちらを食べようか考えていた。
                           <次回へ続く



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