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誰かを大切に想うこと

誰かにとっての「本当に大切な人になること」は、とても難しいことのように思っていた。

自分が誰かを、大切に思うこと
自分も誰かに、大切に思ってもらうこと

新たに誰かを大切だと思った時
これが本当に難しいことなのか、ちょっと考えてみた。


自分が「大切だと思う人」


まず、自分が「大切だと思う人」は、どんな人だろう。


用事がなくても「連絡してみようかな」と思う。
ただ「声が聞きたいな」と思ったり、「今日はどんな1日だったかな」と他愛のない話がしたくなる。

用事がなくても「会いたい」と思う。
電話やメッセージと同じで、ただ「一緒にいたいな」と思う。

元気に過ごしているか気になる。
「元気でいるかな」、「今何してるのかな」と、その人の心や体が今、元気なのかどうかが気になる。だから連絡するのかもしれない。

「共有したい」と思う。
例えば綺麗な景色に出会った時。
その人が好きな何かを、発見した時。
その瞬間を一緒に味わいたい、と思う。

何かあったら、躊躇なく飛んでいく。
遠い場所にいても、眠っていても、すっぴんでも。躊躇なく、体が動く。


…書き出してみて
結局は、「同じ時間を生きたい」と思っているのかな。
あとは、ピンチの場面に「絶対にそばにいたい」のかな、と思った。


おそらく私は、いま上に書いたような気持ちになった時
「ああ、この人は私にとって、大切な人だ。」と改めて認識しているのだろう。その目安になっているような気がした。


すごいのか、当たり前なのか


じゃあ自分が「大切だと思う」人が、
同じように「自分のことも大切だと思ってくれている」確率って、どれくらいなのだろう。


気づいたらこんなに大切だった。でも、気づいた頃には遅かった…なんてことも実際にはあるのかもしれない。
自分が「この人は大切だ」と“自覚しているかしていないか”の差は大きいような気がするからだ。

自覚していれば、「大切にしよう」という気持ちが生まれる。
自覚していなければ、知らないところで傷つけていたり、思いやりが足りなかったりするかもしれない。


他人が出会って
友達になったり、恋人になったり、家族になったり…特にこういった名前のつかない関係であっても。
誰かの「大切な人」になることは、“すごいこと”だと思う。


…でも、“当たり前のこと”のような気もする。


自分のことを大切にしてくれる誰かを、人はどうしようもなく、最終的には大切にしてしまうような気もするのだ。

だから、大切だと思った人のことは
懲りずに大切に想い続けていれば、いつか思いは届くのかもしれない。


…けれど、長らく思いが一方的だったりして、相手から返ってくるものも無くて、大切に想うことが難しくなったら
そこまでの「大切さ」だったのだと、認めざるを得ないような気もする。


…もしかしたらすごいのは、
相手よりも“先に”大切だと思えることなのかもしれない。

難しいのは、見返りを求めずに大切に想い続けることだ。


シーソー


人と人が出会ってから
同じ速度で、互いの距離が縮んでいくことはそうないだろう。


以前、シーソーの端と端に人がいて
それぞれがバランスをとりながら真ん中へ向かって歩いていく映像を見たことがある。

どちらか一方が近づくスピードが早かったり、遅かったり
愛情や思いやりが重たすぎたり、軽すぎたり…
それだけで、シーソーは大きく傾く。

だから声を掛け合ったり、
お互いが今いる位置を確認したりしなければ
距離は変わらないし、バランスも取れない。


そのためにはやっぱり
「相手を想う気持ち」が何より大切なことのような気がする。


友達も、恋人も、家族も、名前のつかない関係も。

大切だと思う人に対して
結局はどこかで「自分のことも大切だと思って欲しい」と、思ってしまっているのかもしれない。

でもそのエゴさえも受け入れあって、支え合っている人がたくさんいて
そこまでの関係を築くには…と、その“過程”がふと気になったのである。



大切に想い続けることはいい。
でも、その気持ちを相手に押し付けない。それが難しい。

でも

そうやって
誰かを大切に想えるのはすごいことだ。
その気持ちが芽生えたなら、相手というよりも、その“気持ち”の方を大切にしたい、と思った。


そうすればいつの間にか
自分も誰かの大切な人になっているのかもしれない。




2024.6.16

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