見出し画像

この星は秋を知らない。

時代の流れがはやい。
変化のスピードがはやい時代。

今までこんなセリフに、
たしかにそうだよなぁ。
って何の疑いも持つことはなかった。

だけど、
生産主義から離れてみると、

本当にそうなのだろうか。

と疑問を持つようになった。

なぜかというと、

うちのネコは朝5時になれば、
いつも通り私を起こしにくるし、

日が登れば網戸にとまったセミは、
短い命の歌を唄いはじめる。

庭のサルビアは今年も変わらず
真っ赤な花を咲かせ、

道端を見るたび、
だれのモノでもない青々とした雑草の成長にいつもおどろかされる。

夜になればホタルが地上の星空を作るし、
その中に「おりひめ」と「ひこぼし」が
いるのだと思うとロマンスを感じる。

そんなこんなで、
私以外のナニかが早く進んでいるとはとうてい思えなくなったのだ。


思い返せば、

小さいころの恥ずかしかったことや、
死ぬほどつらかったことも、
カサブタのような跡にはなれど、
痛みは和らいだ。

私にはこの人しかいない!と、
全力で好きになった人との叶わなかった恋も、
立ち直ろうとしたわけでもないのに、
忘れようとしたわけでもないのに、
また別の誰かを好きになっていく。

反対に忘れようとすればするほど、
ますます好きになってしまうものだった。


時は残酷にも優しくもある。


私が何をしなくても、無常に、
ただ無常に流れていくのだ。

それはまるで、
背景が動いているだけなのに、
自分が進んでいると錯覚することに似ている。


だからきっと、
流れが早く感じるのは
自らも動いているからなんだろう。

自ら動くと聞くと、前に進んでいるとかポジティブに聞こえるかもしれない。

かつての私もそう思っていた。
動かなければ人生は好転しないと。

だけどその考えは、
生き急いでいるとも言えてしまう。

その証拠に、
サルビアの花に気づきもしなかったし、
地上にうつる幻想的な星空にも気づかなかった。

そんなものは人生に関係ないとさえ思っていたのだろう。

それって何の意味があるの?
それって何の役に立つの?

かつての私は、
意味とか、役に立つとか、
わかりやすいものがないと
歩けやしなかったのだ。

なぜ現代はスピードがもてはやされるのかわかる気がする。

スピードが早ければ早いほど、視界は一点に集中され、周りの景色はただの壁に見えるようになる。

何か一つ極めることを良しとする価値観に沿った現代の生きるハウツーである。

しかし、光の速さに到達した視界というものを
ご存知だろうか。

それはだ。

ただ闇が広がるだけ。

目標を追い求めるあまり、
生きる意味を見失ってしまう人間のように思えてしまうのは宇宙の理なのだろうか。


何かをしなくてはならない。
前に進まなくてはならない。
役に立たなくてはならない。

脅迫的なこの同調圧力は、
視野を狭め、
目標だけを見せ、
多くの景色を隠してきた。

だけどどうだろう。

私以外の生物は生き急ぐわけでもなく、
時と共に生きているのだ。

たとえ、
足を止めたとしても、
不安になることはない。

時は人生の背景を動かしてくれるし、
美しい景色をこの目に映してくれている。

それでも地球はまわるのだ。

あぁ、そうか。
私は向きを変えるだけでいいのだ。

足を止めて景色を眺めるのだって人生じゃないか。
足を止めるからこそ、今の景色を心いっぱい味わうことができるんじゃないか。

生きてることを感じられるんだ。

立ち止まることを受け入れられた瞬間だった。

それまでモヤがかかっていた世界が鮮明に見えた気がした。

そんな夏だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?