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「清里現代美術館アーカイブブック エフェメラ・出版プロジェクト」 1990年、伊藤家の4兄弟の協力により、ボイス・ライナー・フルクサスを軸にしたコレクションで山梨県清里に清里現代美術館を設立。(現在は閉館) 信吾氏本人は東京で美術教員を続け、兄の修吾氏が館長となる。


私の中学1年と2年時(1994~1995年)、目黒区立第二中学校で美術の教員だった故・伊藤信吾先生と彼のご兄弟が長年運営してきた #清里現代美術館 のアーカイブブックが5月に出版されました。200万円以上のクラウドファンディングにも成功しました。そして広尾の中央図書館にも配架となりました。


目黒区の皆様もどうぞぜひ宜しくお願いします。これは例えば区出身のプロサッカー選手の名場面集がDVD化されるくらいすごいことだと思うのです。

当時の目黒区美術館の「戦後50年の美術、戦後文化の軌跡展」を授業で真剣に賞賛していた伊藤先生、心からご冥福をお祈りします。

伊藤信吾(SHNGO ITO) 先生

1947年 東京中野区 生まれ

大学卒業後、東京都の中学校美術教師を定年まで勤める(永井も目黒区立第二中学校の2年間に伊藤氏の生徒でした)

教員現役時代から美術品・ポスターの収集を開始(結構なポスターコレクターでしたが、冷夏の折に湿気により大損害を受け廃棄)

1980年のかんらん舎でのヨーゼフ・ボイス展を観て、ボイスのマルティプル収集を開始

ボイスが亡くなった1986年に初台の自室を改装、収集した資料を展示公開するBeuys Roomを開設。



マルセルデシャン展の資料



作家の松澤ゆたか と共に

展示は予約制で、週末に公開。(※上記写真は、そのBeuys Roomに立つ伊藤信吾氏 撮影者は多分友人のカメラマンさん。ガラスのショーケースの下にはベッドが格納されており、伊藤氏はこの住居から教員の仕事に出勤していました。)

1990年、伊藤家の兄弟の協力により、ボイス・ライナー・フルクサスを軸にしたコレクションで

山梨県清里に清里現代美術館を設立。信吾氏本人は東京で教員を続け、兄の修吾氏が館長となる。

この間

1991年 ヨーゼフ・ボイス ポスターコレクション 川崎市市民ミュージアム

1992年 ジョン・ケージ メモリアル

1999年 アーティストブックの世界展 (甲府市教育委員会)

 の企画展示に協力(1993年頃から、伊藤氏の選書でtelescopeartウェブサイトネット古書店開始)

この他にも作品貸し出しなどに協力しています。

教員退職後に清里に移る

2014年に清里現代美術館を閉館(伊藤氏の勧めでtelescopeart再開) 伊藤氏、兄達と共に清里から転居

2017年 伊藤信吾氏急逝

#伊藤信吾 #目黒二中 #美術教員 #ヨゼフボイス #現代彫刻 #文学フリマ #個人美術館 #私設美術館 #プライベートギャラリー


続編
記念アーカイブブック出版で話題の旧清里現代美術館の館長であった伊藤氏が私の目黒での中学時代(旧目黒第二中学校)での美術の教諭であった事は以前に書いた。

これは久しぶりに出てきたその伊藤氏の「シュルレアリスム」をテーマにしたプリントゴッコを使用しての美術科の版画制作の授業での私の多色作品だ。


おそらく14歳くらいの時の作品。葉書大だが私の本格的な版画表現の第一歩だったのでは?こういう作品は理屈では無いのでもう作れないだろう。2枚しか現存していない。状態が良かったのは超現実ではなく奇跡。

タモリの赤塚不二夫の葬儀で出たあの印象的な弔辞のセリフではないが「私もあなたの作品の一部でした」というのはきっと本当かも知れない。

I have mentioned before that Mr. Ito, the director of the former Kiyosato Museum of Contemporary Art, who is the subject of a commemorative archive book publication, was my art teacher in my junior high school days in Meguro.

This is a work of mine, which I have not seen for a long time. It is a multi-colored print from an art class using a print gocco on the theme of "Surrealism" taught by Mr. Ito.

I was probably about 14 years old. It is postcard-sized, but it was probably my first step toward full-fledged printmaking expression. Only two of these prints are known to exist. The fact that they were in good condition is not surreal but a miracle.

It may be true that "I was a part of your work", which is not a line from Tamori's memorable eulogy at Fujio Akatsuka's funeral.

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