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傷を負った祈り、呼吸する聖域。

「よく見ていてください。この木とこの木を組み合わせます。」

複雑に切り抜かれた二つの木組みのパーツは一定の角度からはめ込むと元々一つの木だったかのように一つの形を成す。

「どうぞ。やってみて下さい。」

僕の手の中でもう一度二つの組み木に戻ったパーツを僕は手品のタネを探すように色々な角度からのぞき込む。
木と木がそれぞれ違う形の手をしているのに向きを合わせるとピッタリと一つの形になる。

「すごいもんでしょ。」

もう一度組み上がった複雑な組み木に視線を寄せる。

「ここは少し段差があるんですね・・・。」
「えぇ。でも大丈夫ですよ。納品する頃にはきっとうまく乾燥してピッタリハマりますから。」

半年程してこの木組みをもう一度見せてもらったら、本当に言った通りに段差がなくなりぴったり組み合っている。

「うまく出来上がりました。」

長年の経験で半年でどれくらい木が乾燥して、どのくらい掘って削って微調整をすると良いのかそれをご存知なのだ。

「本当ですね。前はここに少し段差があったのに。」

この木工師さんの工房は壁一面に色々な木材が立て掛けられ床には木屑が敷き詰められていて、いつ行っても木の匂いと珈琲の匂いがしていた。

「まぁ一杯やってください。」

珈琲を飲みながら職人さんは一点一点立て掛けた木を指して木の良さや形の不思議、個性について話してくれた。

「木はね。切って分けて、加工しても、どんな形になっても生きているんですよ。」

ヒトは一度でも人の手が加わるとそれはもう自然のモノではないと考えがちだ。
しかし、どんな人工物も元を辿ればすべてこの星の中で作り変えられた自然由来の何かなんだと僕は思うようにしている。
こうした考えを持てるようになったのは一緒に仕事をさせてもらった職人さんたちのおかげだろう。

「この組み木はどこで使うものなんですか?」

それは教科書にも載るようなある有名なお寺に納められる塑像用の椅子だった。

「じゃあこの椅子はあの像とこれから何百年も一緒に生き続けるんですね。」

「そうですよ。日本の気候に合わせて冬は乾燥し夏は少し膨らみながら、呼吸をしてこれからも形を変えて生きていきます。」

木工師さんの手で新しい形に導かれた木はこれから何百年と生きていくのだ。
我が子に触るようにその木工師さんは小さな椅子の部品を撫でいた。

日本を離れて1ヶ月が経とうとしていた頃、僕はベトナムのある街でこの記憶を思い返していた。

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ホーチミンから夜行列車とバスに揺られて中部のホイアンという街にやって来た。

ホイアンはかつてチャンパ王国の貿易港として栄え日本とは朱印船貿易で江戸時代の初期まで交流のあった街だ。
日本が本格的な鎖国政策に入るまでたくさんの日本人が暮らす居留地があった。
この名残が今も街のあちこちに残っていて、日本人が作った来遠橋という橋がまだ実際に利用されている。

この橋は今ではホイアンの街のシンボルになっており街の人たちや観光客に親しまれている。
つまり日本人が作ったものが何百年も残っているということだ。

ホーチミンで一旦、別行動になったナオ君とは合流しやすいように同じゲストハウスを予約していた。
これからまた数日、二人でパーティーを作る約束だった。

僕らがこの街にやってきたのは三つの目的があった。
満月の夜に行われるランタンフェスティバルというお祭りを見ること。
まぁ実際は毎晩お祭りのような雰囲気でランタンが街中に吊されるのでベトナム人も外国人も溢れかえっている

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「まず何します?ランタンは夜ですしね。」
「とりあえず今日は街をブラブラして、明日はチャム島に行かない?」

チャム島とは僕らの2番目の目的だった。

ホーチミンのゲストハウスで仲良くなったスタッフがホイアンのオススメのアクティビティを教えてくれていた。それがチャム島だ。
ホイアンの沖合にあるこの島までクルージングして、1日シュノーケリングやダイビングを楽しめるプログラムが地元ベトナム人にも人気なんだそうだ。

「じゃあまずツアー予約っすね。」
「フロントで全部やってくれるみたいやね。」
「そうっすね。先に調べときましたけど、宿主催のツアーが安そうですよ。」

ゲストハウスのような宿にはツアーオフィスを併設するところはよくある事で宿泊者だと安くしてもらえたり、宿主催のツアーであれば集合場所がフロントになるなどなにかと便利なので旅人はコレをよく利用する。
逆にツアーオフィスの良さで宿を決める事さえあるくらいだ。

「で僕はミーソン聖域やな。」

僕の主たる目的はミーソン聖域に行くことだ。
これが3つ目の目的で言わば僕のメインクエストだ。

時限クエストの『ランタンフェスティバル』サブクエスト『チャム島』そしてメインクエスト『ミーソン聖域』これが今回の攻略プランだ。

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ミーソン聖域はチャンパ王国のヒンドゥー教寺院郡であり、宗教の中心地だった場所である。
この遺跡もアンコールと同じ時代に築かれた世界遺産であり、同時にユネスコ主導のもとで修復作業が行われている。

ランタンフェスティバルは毎晩味わえたし、存分にビーチリゾートを満喫した僕は宿が手配してくれたツアーに参加し、ミーソン聖域に行くことにした。
ナオ君は興味がないらしく今回は不参加だ。

遺跡をしっかり見て理解も深めたかったのでガイド付きのツアーに参加することにしていた。
そしてこのガイドがなかなかの人物で今でも忘れられない思い出深い出会いだった。

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現地人ガイドの彼の名前は聞けなかったがグラサンをしていたのでここでは「グラさん」と呼称しようと思う。

グラさんは早口でまくしたてて喋る上にとんでもない毒を吐く人物だった。

英語のヒアリングはまだなんとなくしできないレベルであったが、意味が分かるとヒヤヒヤするくらいヤバいことを言っている。

例えばヒンドゥー教寺院なので至る所にリンガが安置されている。
リンガとはヒンドゥー教においてシヴァ神を現るシンボルであり、男性器を表現した法具である。
シヴァ神はヒンドゥー教で最も有名な神であり、破壊と再生の神でありミーソンはシヴァ神を祀った聖地である。

これを説明しながらクイズをするのだが、女性を回答者に指名する。

「これは何かわかりますか?」
『いやいや。あかんやろ。』と内心ヒヤヒヤしながらやりとりを見ていた

女性は当然答えなかったが、その様子を見てグラさんは調子づいていく。
揚々とリンガの説明を続ける。

「これは男性器を表した神様です。」と言った感じだ。

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「ではこの大きな穴はなんでしょうか?」

「ボムホールだ。」

何人かの外国人が口々に声を発する。ほとんど外国人がまずこの大きな穴の写真を撮りに行っていたのでおそらく彼らの目的はこの大きな穴と遺跡のある風景なのだろうと思っていた。

この遺跡のあちこちにすり鉢状の3メートルくらいの穴がたくさん開いている。
これらはすべてベトナム戦争時にアメリカ軍が落とした爆弾が残した跡だ。

ホイアンは南北軍事境界線からも近く、戦時中、南ベトナム軍はこの遺跡を基地として使用していたそうだ。

「見てくれ!これがアメリカの落とした爆弾だ!」
当時の不発弾も遺跡の展示物と一緒に並べられている。
たったひとつ落ちただけで、こんなにも大きな穴を穿つ。

そんな狂気の物体と神々が一緒に並んでいるのはちょっと異様な光景ではあった。
ただそれよりも狂気だったのはグラさんがそれを笑いながら話す様だった。

「破壊の神の横に本当の破壊の神がいるんだ。」

「アイツは何を言ってるんだ?」
一人の外国人が僕に尋ねる。

「んーん。なんと言えばいいのか・・・。」

この頃の僕はまだ英語を聞くことも話すことも自信がなかった。
彼が言っている事がわかるのではなくて、彼が差しているものが何なのかそもそも知っているから理解ができているだけだ。

それにグラさんの言っている事は際どいジョークが多くてオブラートに包んで説明なんてできない。

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「ではこれを見てください!」
彼は首のなくなった塑像を指して言う。

「さあこの石像の首はどうしてなくなったと思いますか?」

アンコール遺跡群でも首のなくなった塑像はたくさん見て来いたので、なんとなく想像はしていたがはじめてはっきりとした理由を知ったのはこのミーソン聖域だった。

「爆弾で壊れて落ちた。」
白人の女性が答える。

「いいえ違います。正解は盗まれたからです。」
「さぁでは誰に盗まれたと思いますか?」
『ものすごくいやな予感がするなぁ』僕は心の中で呟く。

「えっ?盗賊?泥棒かな?」

「いえ、違います。フランス人たちなんです。」

『そういう事をヨーロッパ人たちに聞くのか。どうした、なんか恨みでもあるのか!?』

「ですからみなさん!この像の頭が見たかったらルーブルに行ってください!そこで見ることができるますから!」

彼はジョークのつもりで言ってるのだろう。
ただみんなはちょっと苦笑いだ。

「ではなぜ?首だけ持って行ったのか?わかるりますか?」

彼によると塑像をまるごと持って帰るのは当時の船では重量オーバーだったかららしい。だから首から下は残して行ってしまった。

「重かったから体は置いて行ったんです!」

グラさんは笑っている。
東南アジアでは植民地時代に多くの国が宗主国のフランスやイギリスによって発掘品を国外に持ち出されてしまった。

美術品として売るために盗まれたりもしたようだがルーブルにあるような遺品は表向きは研究や遺跡の保護が目的と言われている。
彼らの言い分は当時の植民国家の文化水準では貴重な文化財が損なわれるという理由だそうだ。ただいまだに返還などはほとんどされていない。

『それなら盗まれたと言われてもまぁしかたない。』

実際、イギリスの大英博物館などは「泥棒の博物館」なんていわれていたりする。

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「それでは次はあの建物を見てください!」

グラさんは目の前にある寺院を指差した。

「今、このミーソン聖域はユネスコ監督のもと修復作業が行われています。」

この建物は数年前に修理が終わったもだと彼は言う。
ただこの修復も完全なものではなかった。

「よく見てください。ところどころ緑のレンガが見えますか?」

たしかに壁面はうっすらと苔が生えたレンガが見受けられ、緑のレンガと苔の生えていないレンガが混ざり合った建物になっている。

「あの苔の生えたレンガが修復の際に新たに付け足されたレンガになります。」

よく見るといくつかの遺跡は色の違うレンガで組み直されている。

ベトナム中部の雨季は8月から12月に来る。
雨季のは遺跡の壁面は雨に晒されていく。
そして、1月からの乾期になるとレンガに吸収された水分は蒸発してまた雨季を迎える。

きっちりと乾期の間に雨季に蓄えた水分が蒸発させると苔は生えない。
しかし、新調されたレンガはこうした呼吸が出来ないものが組み入れられてしまい。水捌けが悪いと乾期が終わる頃に表面に苔が生えてくる。

「かつてこのチャンパ王国には優秀な技術者がいました。素晴らしいレンガを作る技術があったのです。」

ただ今のベトナムの技術ではこれは再現不可能なんだそうだ。

「そこでユネスコはこのレンガ作れる国を選び。イタリアが任命されたのです。」

しかし、イタリアの研究者や技術者も完全再現はができなかったのだ。
イタリアの職人たちを非難する訳ではないがそれが叶わず、グラさんのようなベトナムの人たちは落胆したとのことだった。

ヨーロッパ人たちがどういう気持ちでこれを受け取ったかはわからないが、驚いてはいるようだった。

腐食していくレンガを組み入れた事で生き残っていたチャンパ時代のレンガまで崩壊が進みはじめている。
次代のために残すはずの修復がかえって寿命を縮めてしまう可能性があると彼は言う。

「私はあと100年も持たないと考えています。」
そして彼は続ける。
「この場所はフランスに大切なものを奪われ、アメリカによって破壊され、今、イタリアによってとどめを刺されようとしています」

『あぁとんでもないことを今言ったなぁ』と思ったが、この言葉は本当に今も忘れられない。

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自由散策となってたくさんの人たちがその苔生したレンガの写真を撮っていた。

僕もこのレンガを納めておこうと彼の差した寺院に近寄った。

苔の生えてしまったレンガもあるし、修復したばかりでまだ薄い肌色のレンガもある。
これもいつか苔が生えてしまうのかと思って触っているといつの間にかグラさんが僕のところにやって来ていた。
彼は僕に声をかける。

「日本人ですか?」
「あぁそうだよ。」

「私はあなたの国に直してほしかった。」

遺跡を見つめながら彼はまた続ける。
「あなたの国の技術者たちはすごいんだろ?」

僕はよく知っている。僕は呼吸する法具たちを触って来た。

「あぁすごいとも。」

きっとあの人たちは100年でも200年でも持つような新しいレンガを作ろうとするだろう。

「どうしてベトナム政府は日本に頼まなかったんだ?」

一部日本の協力している事業もあるが修復はイタリアが行なっている。
それはユネスコが全部決めるからだ。
ユネスコがイタリアと決めたらイタリアなのだ。

「もしも本当にこの聖域がダメになりそうになったら日本に頼んでみなよ。きっと手伝ってくれるよ。」

「知ってるよ。日本ってそういう国じゃないか。」

ガイドとしてのリップサービスかもしれないが自分の国や技術のことを褒められるのは嬉しい気持ちになる。
まして僕はそうした職人や技術者さんたちの仕事を目の前で見てきたから余計にだ。

『すげぇーだろ。うちの国』

この時僕は改めて自分の関わって来た仕事が誇らしく思えた。
画像7そして、今もう一つの別の言葉も思い出している。

それはまだ20代だった頃に四国遍路の道すがらで触れた言葉だ。

ちょうどその頃、四国遍路も熊野古道のように世界遺産登録を目指そうという話がもちあがっていた。

たまたま反対派の人の意見を聞く機会があり、この言葉こそ寺院遺跡や信仰文化を守るために必要な考え方の一つだと僕は思っている。

「祈りの道をそんなもんを頼って守ってはいけない。祈る事は祈る人みんなの手で守っていく。それこそ祈りの道だ。」

ベトナムの選択を非難するわけではないし、ユネスコが担う役割も世界にっては大変重要であると思う。

ただこの言葉が思い返される。

グラさんの言葉にはたっぷりと毒が塗りつけてあるが、彼なりの訴え方であったと思う。

『わかってくれ、僕の国の現状を。』

いつかベトナムの人達が自分たちの手で焼いたレンガでこの遺跡を直してくれるのが理想だ。

そのために日本の職人さんの知識が必要ならきっとあの人たちは喜んで自分たちの技術を教えてしまうのだろうなと僕は思う。

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