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未熟者が、自分を保ちながら助言を受け入れる姿勢

ある人から、働いている同僚からの助言がきつい、と相談があった。
自分に必要なことを言ってくれているのはわかるが、何を言われているのかオブラートに包まれすぎてわからないという。

 その人からの助言は、半分愚痴みたいなものも含まれている。
話を聞いていて、そこには人の批判も入っていて、助言という形をとっているが、傷ついた自己を癒す行為でもあることがわかった。
伝えたいことと吐き出したいことが含まれていて、わかりづらいのだ。
 基本的には無視すればいいが、その助言を受けるかどうかは、あなたの裁量でいいと伝えた。人に何かを伝えたいのなら、相手のことを考えるべきで、
タイミングや時間、ワードをチョイスする、相手の受け取り方も考慮する配慮が必要だからだ。それを感じられないなら受け取らなくてもいい。傷付く場合もあるから。

渡したいものがあったとき、包装紙をどうしよう、から考えるのは、相手のことを思ってのことだろう。

両手がふさがっている人に、たくさんの荷物を渡しても持てないだろう。

陰での批判や愚痴は言ってすっきりする排泄物の類だ。
そんなものをぶつける目的で、助言みたいな形から入りそれを渡されたなら、いらないだろう。

「これ、あなたが欲しがっている服。う〇こついているけどいいよね」

そんな贈り物は受け取れない。

ベクトルが自分に向いているうちは、助言とは似て非なるものになる。

だけど、相談者は、「自分にとって足りないものを教えてくれていると思うと聞かないと・・・」と話す。

いい人なのだ。

何を言われるかではなく、どのように言われるのかが、関係性を決める。
人は関係性から学ぶのだ。
背中を見てくれないのだ。

学ぶほうは自尊心を忘れてはいけない。

未熟だからといって傷ついていいわけはない。

人は傷ついたり、痛い目を見ないと学べないと思っている人がいる。
だから傷つけるのは仕方ないのだ、という理屈。
「これが正しい」と思ってそれに固執している人は、それが通用しないと思ったら傷つくかもしれないが、
自分がしていることはまだまだ変わる余地があると考えていて、変化を受け入れる人は、必要以上に傷つかない。

かたくなに固執して防衛がはたらいている人が変化を受け入れだすには、
やはり関係性がポイントになるのだ。

なにを言うかではなく、
どう伝えるか。

それは相手にもっとずっと思いを寄せないとわからないことだろう。

これを書いていて、自分は自分が意識していないところをも担っている他人について、あまりに無関心だなあと反省した。

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