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続く黒人差別。蔑視は欲望される。醜い己れから外へ、涙で幸せの種に水を。

黒人男性が白人警察に押さえつけられ死亡したアメリカの事件が、世界各地の抗議デモを呼び起こし、運動は今も展開し続けている。黒人差別は陰陽に、無意識に存在してきた。その不満が今般、爆発した。直近でも8月23日に黒人男性が3人のわが子の前で白人警官に7発撃たれるという事件が発生。テニスプレーヤーの大坂なおみ選手は「警察の手で黒人の虐殺が続いている」「黒人に起こった権利剥奪、全身性人種差別、その他の数え切れないほどの怪物が私の胃を病ませる」とつづった。

虐げられ続ける人たち。その気持ちに共感できる日本人は、そう多くないと思う。たとえば抗議デモに対し、日本語圏のネットでは「このコロナ禍に集まって歩くのって、愚かだよね」と揶揄する、差別への切迫とはほど遠い発言すら、まま見られた。

差別は他人事ではない。日本にも多くの差別がある。女性、LGBTQ、ハンセン病者、障害者、アイヌ等の民族など、差別されてきた人たちを数えあげればキリがない。それらは、特に「差別する側に」あまり気づかれずに、確固と存在し続けている。

私は差別する人間か? この問いかけを柱とし、本稿で差別について記す。

米国黒人差別は意識的・無意識的に現れ続けている

黒人男性と結婚した日本人女性の記事を読み、いたたまれなくなった。アメリカ在住の彼(夫)は、近くのコンビニに行くのにもヒゲを剃り、髪を整え、街中では突発的に走らないようにしているという。コロナ禍にあっては、マスクをつけることにも彼は躊躇した。なぜなら「私は危険人物ではありません」と世間に示すためだ。「黒人がマスクすると恐怖心を与えてしまう。誤解されたくない」。だからマスクをためらう、と。彼はそんな日常を送っている。それに気づく人は少ない。

かつて、人間としてすら見られず、奴隷として酷使され、「ニグロ」(語源はギリシア語「ネクロ=死体」だともいわれる)と呼ばれた黒人。ここ数十年で、彼らがバスに乗る時に、乗車を待つ列で、座席で、白人に場を譲らなければならないという事態は急減した。しかし、見かけ上「減った」ように見えるものが、実は一部差別の潜在化にしかなっていなかったことを、マスクをためらう上記の黒人男性や今回のデモ、黒人射殺事件が示していると私は思う。バスケットボールの名選手だったマイケル・ジョーダンはこう語った。「深く悲しみ、傷つき、率直に怒りを覚えている。多くの人が激しい怒りとともに不満を抱いている」

その響きに、肌の色の違いへの人びとのこだわり、その深き根をたどることの難しさ、グロテスクな流れを感じた。

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信じたい――。できることなら信じたい。人にある温かな奇跡を。しかし、差別は残酷だ。差別は次の世代にわたっていく。すでに存在してしまっている差別に触れ、次世代の差別が再生産されている。誰の命だって、別の誰かを輝かせるための光だ。その光を、他人を照らすためではなく、差別することによる優越感や満足感、差別する側の連帯感によって、光の陰、暗闇をつくることに利用してはならない。差別の味を知った人は、その陥穽から容易に抜け出せない。蔑視は欲望すらされる。恐らく多くの人が、その落とし穴の縁(ふち)を歩いている。それと気づかないまま。

黒人が危険でないことを日常的に示さなければならないのなら、それは差別が「前提」になっている社会のありようを示す表象だ。その環境下であれば、普通の人が普通の生活の中で、よくある契機で差別をするだろう。私も、そしてあなたも。

差別感情は人に備わるものだから仕方がない?

人間は差別に打ち勝てるだろうか。そう問うのは陳腐かもしれない。だが、明確に、確実に、差別には抵抗していかなければならない。少なくとも、差別が生じる悲しき事由はかなり明らかになっている。

例えば、偏見の対象に出合った時、人は意思に関係なく蔑視したい欲をわかせる。その好例がパトリシア・デヴァインの実験で示されている。同実験では、白人の参加者に「ブラック」「ニグロ」「バスケットボール」「貧しい」などの黒人を連想させる語が、本人が意識できないほどの速さで提示される。その後に、人種が定かでない人物の情報を読ませ、印象を聞く。すると、多くの白人がその人物を「攻撃的」と判断した。攻撃性に関する語は見せていないのに、である。攻撃性は黒人への固定観念として知られている。実験時、白人たちはその偏見を無意識に活性化させた。なんと、差別はもはや反射神経によって繰り出されているのだ。

こういった生得的な人間の属性が幼い頃からの差別の刷り込みと合わさった時、差別への抵抗は、ガンと動かぬ壁に直面してしまう。

だが、だからといって差別は放置できない。私は、本稿をなかば免罪符のように、それこそ「この記事を書くことで私は差別と向き合っています」とアピールするように欲望を働かせて、醜い筆致で書いている。それは、偽善だと言われよう。それでも看過しない、どんな悲劇に埋もれた場所にでも、幸せの種は必ず植わっていると信じるがゆえに、言葉をつむぐ。

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理想論めいている――。私にも、それはわかっている。そんな私は、日本の移民差別を追うジャーナリスト安田浩一さんに背中を押される。彼は語る。

「ときどき、人を差別するような感情はもとから人にそなわっているものだから、人が人を差別するのは仕方のないことだ、というようなことを言う学者や識者がいたりします。(中略)どうしても僕は賛同できません」

「人にはやってよいことと悪いことを判断する力、すなわち理性がそなわっています。その理性は、人と人とがよい関係をきずき、うまく社会をまわしていくために必要不可欠なものです。理性を捨てて『差別するのは仕方がない』と考えることは、人として生きようとする姿勢を捨てさるようなものにも感じます」

それとなく生じる“現代的レイシズム”

差別の議論には、これまでの話とは別様の、気がかりな点も持つ。

新たな偏見の表わし方がとられるようになったのだ。一例を範型で示せば

①差別はすでになくなっている
②だから黒人がいま低い地位にとどまっているのは黒人の努力不足による
③にもかかわらず黒人は、ありもしない差別に対する抗議をしている
④その結果、手厚い社会保障などの不当な特権を得ている

といった表現になる。“現代的レイシズム”とも呼ばれるこのロジックを用いた差別は、「人種」ではなく「振る舞い」を非難しているように感じさせる。それゆえ言葉にされても差別とわかりにくい。否、ロジカルに、理性的に表現されているため、もっともらしさまで印象づけられてしまう。こんな言説が跋扈すれば、差別主義者を善人とするトレンドだって生み出せるかもしれない。

あからさまなアメリカの黒人差別は、減ったようにも見える。教育機会や労働機会だって、制度的には相当な平等が実現されてきた。だが、仕組み的な平等が実態を伴うとは限らない。「男女雇用機会均等法」が施行されて30年以上たつ今も労働における男女平等が実現しない日本のように、アメリカの黒人差別も法制度と実態の間に大きな隔たりがある。

制度が平等であることと機会に恵まれることは別

黒人差別を論じる時によく参照される上杉忍氏の『アメリカ黒人の歴史』をひもとこう。

同書は、ホワイトカラー職に従事する黒人や中産階級とみなせる黒人、持ち家のある黒人がここ半世紀ほどで急増したことを教えてくれる。だが、人種のるつぼ・アメリカの他集団に比べ、黒人の中産階級比率は、なお低いままだ。しかも、中産階級の黒人の財産規模は白人に比べ相当に小さい。住宅の価値や貯蓄などの中位総資産価値も、2005年時点で白人の10分の1以下。貧困率も、片親家族の比率も、白人と黒人では歴然の差がある。

教育機会はどうか。制度上は「万人に開かれた大学の門戸」である。進学は“能力次第”となっているはずだが――。

大学進学率と世帯年収が露骨に相関している日本と同様、アメリカでも親の年収が進学に影響している。「National Center for Education Statistics(米国教育統計センター)」の調査では、社会的地位や経済力を5層に分けたうちの最上位層で進学率が90%以上になるのに対し、最下層は56%という結果が出ている(2016年時点)。黒人白人問わず、貧乏人はいい大学に行けないという、露骨な貧富の差が教育格差に現われている。

ここで注目したいのが、競争率の高い4年制大学に進学する最上位層の学生の割合だ。なんと、白人36%に対し、黒人は18%にとどまるという。つまり、似たような経済的境遇にあっても、黒人は白人の半数ほどしか“羨望される大学”に進学できていないのだ。

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この格差は、「教育機関の門戸が平等に開かれていること」と「実際に平等な教育機会に恵まれること」が異なることを示している。同じ白人同士でも親の収入によって教育格差が生まれているのだから、黒人の進学率の低さを「単なる能力の現われ」と言うことはできない。

悲劇に埋もれた場所に植わっている幸せの種――。その種に水をそそぐのは、まさにハチドリの一滴といったレベルかもしれない。

だが、現代的レイシズムが言う「黒人の努力不足」は的外れだ。彼らが主張するような形では、差別はなくなっていない。黒人は、「ありもしない差別」に抗議しているのではない。彼らの主張は妥当であり、正当だ。無数の嘆き、苦しみ、悲しみ、そして流される涙が、冷たい統計に糊塗されている。しかし、その塗り固められた嘘の絵油は、ハチドリの一滴をはじき、差別される人の涙を容易に受けつけない。この困難の壁、そしてそれが、社会的に、構造的に、自身の心根に根差していることを、まず知っておこう。

そしてもし、理性によって差別に抗おうとするなら、現代的レイシズムのようなロジックに簡単に「乗せられない」「踊らされない」よう、差別の範型としてあらかじめそれらを学んでおくことだ。また、道義的に差別が悪であることを教えるだけでなく、差別の歴史や差別が起こる社会的・心理的な原因について知識を深めることも大切だ。

残念ながら、差別の歴史に関する知見の蓄積は十分とはいえない。差別する側とされる側の歴史をどう対照させるか等、課題は多い。しかし、もしいま起こっている黒人等の抗議デモの報に触れ、事態の把握を開始し、あなたの身近な当事者(差別されている人)に気づき、声を聞いて、あなたの手で差別の実態を調べ、行動に移すなら、それは差別の歴史の不十分さを補う、あなたにとっての十分な一歩になるだろう。

あなたのその一歩は、いま踏み出すことができる。

涙であふれたジョウロで幸せの種に水を

そしてもし、差別する側として泣き、差別される側と共に泣き、こぼれ落ちた涙が、あなたの持つジョウロいっぱいになったら、悲劇に植わる幸せの種に、その涙をまこう。

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あなたの一歩はそれほどに微々たるもので、同時に、ゼロからイチを生む大きな価値でもある。

[参考]
・「『アスリートである前に黒人女性』 大坂なおみ、準決勝の試合を前日に棄権」エキサイトニュース
https://www.excite.co.jp/news/article/Grape_861317/
・「黒人ファミリーの一員になった私。夫の密かな習慣で、黒人が置かれている立場に気づいた」HUFFPOST
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ed97378c5b69d703f385dd4
・梅原猛『哲学の復興』講談社現代新書、1973年
・「深い悲しみ、とジョーダン氏 黒人男性暴行死を受け声明」共同通信
https://this.kiji.is/639980506207487073?c=113147194022725109
・北村英哉ほか編『偏見や差別はなぜ起こる?』ちとせプレス、2018年
・安田浩一『学校では教えてくれない差別と排除の話』皓星社、2017年
・上杉忍『アメリカ黒人の歴史』中公新書、2013年
・大学進学率と家庭の年収の相関は、内閣府発表「平成28年度 子供の貧困に関する新たな指標の開発に向けた調査研究 報告書」を参照した https://www8.cao.go.jp/kodomonohinkon/chousa/h28_kaihatsu/3_02_2_5.html
・アメリカの大学進学・卒業状況に関する統計は「High School Longitudinal Study of 2009:HLS」(National Center for Education Statistics調べ)を参照した https://nces.ed.gov/surveys/hsls09/
・Mr.Children「花の匂い」歌詞、うたまっぷ.com、桜井和寿作詞

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